心にうつりゆく、よしなしごと/(身辺雑記)
- 2010/04/08(Thu) -
 ここのところ多忙で、まとまった記述ができない。

 昨日は朝から仙台で緩和ケアの取材、明日(すでに今日だが)は甲府でほうとうやら煮貝やら猪なべの取材。

 取材から帰ってきても、西洋史の解説本やら、山梨のガイドブックやら、訪問看護師向けのルポやインタビューやら、原稿目白押しである。

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 抜刀の際の右手は、打太刀の立場になれば制すべき位なわけで、それにどう対処するかも、居合・抜刀術の骨法である。かつて旧師に学んだ古流の形を抜いていて、ふと「なるほど、こういうわけか!」といまさら気付く。

 旧師の元を離れてはや20年以上。流れ武芸者は、なかなか辛いものだ(笑)。

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 切り落とし系の形で打太刀をとるときには、相手が初学者の場合、やや(場合によってはかなり)袈裟をかけて打ち込んであげる。一方で、こちらが仕太刀になると、相手は容赦なく真っ向正面で切り込んでくるわけで、それがまあ、上位者としての稽古になるわけだ。

 しかし、あまりシビアな勝太刀の取り合いになると、そこで完全に切落とすと、どうしても誤って相手の指を打つことが多くなってしまう。

 やはり、木太刀に鍔をつけてもらった方がよいか?

 悩むことろである。個人的な経験と好みでは、木太刀に鍔はつけたくないのだがね・・・。

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 西洋史の原稿で、ちょうど16~18世紀のプロイセンやオーストリアの歴史について書いていたので、取材の移動の合間に、ずいぶん長い間“つんどく”したままであった、石原 莞爾の『戦争史大観』を斜め読み。

 しかし究極のところが「日蓮宗への信心」といわれると、実家の宗教は神道で、しかも無宗教の人間としては、いささか鼻白む思い。

 一方で、兵頭流軍学的に考えれば宗教と立法という良心の二段構えが、西洋近代的自我の重要部分とすれば、石原の日蓮宗への傾倒も、あながち的外れではないということか・・・。

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 『ザ・コーブ』のダイジェスト版をみたが、ガキのころからイルカを食してきた伊豆人としては、はなはだ不愉快な内容。

 一方でドキュメンタリー映画は、あくまで製作者の主観に基づいた事実の加工物であるわけで、彼らが何を考えているのかがよくわかった。

 イルカを食材と見ているわれわれと、コアラやパンダなどと同じような保護対象の野生生物と見ている彼らとでは、そもそも前提が違いすぎて議論にならない。

 だからこそ、国際的な条約や各国内の法令遵守が、価値観の異なるもの同士の最低限のルールになるはずなのだが、連中がそれらをまったく無視しているのだから・・・。

 グリーン・ピース・ジャパンは、「クジラ漁に関する不正告発のためなら、窃盗も許される」という信じられない自己正当化のあげくに運送会社に忍び込んで荷物を盗んで逮捕され、シー・シェパードはエコ・テロリズムを繰り返している。

 目的が手段を正当化する・・・、というのであれば、逆に「クジラ類の資源利用を守るためなら、反捕鯨団体や個人へのテロや破壊活動も許される」という理屈もなりたつだろう。

 なにより、「目的が手段を正当化する」的な考え方は、筋目を大切にする日本人にはなじまないものだと思うのだが。

 いずれにしても、今、この瞬間もイラク人やアフガン人をばんばん殺している欧米人が、「殺されていくイルカを助けたい」と目を潤ませながら語るのは、いかにもキリスト教的な選民思想でげんなりする。


 イルカを助けるヒマと金があるなら、イラク人やアフガン人を助けてあげたらどうかね? っと思うのは、私だけだろうか。


 (おしまい)
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