たまには「気」の話しでもしてみるか/(武術・武道)
- 2010/07/04(Sun) -
 あまり関心はないのだけれど、サッカーワールドカップ日本代表の16強入りは、いち日本国民としてたいへん喜ばしい。

 一時、日本代表の岡田監督が、遠隔操作で「気」を入れたりする(らしい)「ナゾの空手家(週刊新潮/2008.3.20号より)」のカルト系セミナーにはまっていたことに、一抹の危惧をいだいていたのだが、どうやらワールドカップ開催前には、妙な洗脳からは脱したようである。

↓ソースのリンク
 「早稲田大学は12月11日、ICC(早稲田大学国際コミュニティセンター)開設3周年記念「働く杯」を開催、特別講演でサッカー日本代表監督の岡田武史氏が自らの仕事に対する姿勢を語った」
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0912/14/news010_2.html

 よかった、よかった。


 うさんくさい武術がらみの、「気」や「遠当て」などは、しょせんは感応と暗示を駆使した旦那芸・・・、そんなカルトにはまるひまがあったら、汗かいて稽古しなはれ! っというのは、このブログでもさんざん書いてきた。

 その上で、私なりの、武術・武道の「気」について書いてみよう。

 ただし、「気」は「気」でも、意識の「き」のお話しである。


 まず前提として。

 直接的にそれ単体で物理的作用を起こす(ことが期待される)、なんらかのエネルギーとしての「気」なんてものは、存在しない。

 そんな「気の力」が存在すると言うのなら、私が打つ手裏剣を、「気の力」で打ち落とすなり、止めるなりしてみなはれ。

 それができるのなら、私は武術も武道もやめて、医療記者も廃業し、頭を丸めて100万円あげるヨ(笑)。

 ということを頭に置いていただきたい。


 さて、昨日の稽古で、Aさんと当庵の初級剣術(組太刀)の稽古をした。

 初級剣術の2本目は「袈裟」という型で、概略は以下の通り。


 1 一足一刀の間合で、双方、右半身の晴眼。
 2 打太刀が晴眼から無構に移る機に、仕太刀は歩足で二歩踏み込み左袈裟※。
 3 打太刀は歩足で後退しながら仕太刀の袈裟斬を見切る。
 4 袈裟斬を外された仕太刀は、左足を一歩踏み出し、剣先を打太刀の喉につけて、位に詰める。
 5 打太刀がさらに後退するのを追って、仕太刀は追いかけて右袈裟。
 6 打太刀は後退して、仕太刀の右袈裟を見切る。
 7 仕太刀は右足を踏み込んで、剣先を打太刀の喉につけて、位に詰めて勝つ。

 とまあ、ごくごく基本的かつシンプルなものだ。なおこの型をはじめ当庵の初級剣術の組太刀は、主に戸山流の基礎居合を参考に、私がこれまで稽古してきた古流の技や理合などを盛り込んで、独自に編纂したものである。


 Aさんは武術・武道経験がない上で、当庵に入会されて1年ほど。一方で、芝居や舞踏などをやっておられるということで、ある意味、武術の形而上的技術については、一般的な武術・武道経験者よりも理解力が深い。

 で、このAさんと上述の「袈裟」の型を稽古していたのだが、剣先を打太刀の喉につけて、位に詰めるところが、どうにもたんに形をなぞっているだけになっているので、

「この時には、外見上はリラックスして柔らかに剣先を私の喉に付けること。ただし意識としては、剣先をつけられた私が微動でもしたら、すかさずそのまま喉に突きを入れて、あなたの剣先で私を突き殺すという意識を心の中一杯に満々と持ってください。でもそれが、ちょっとでも表情や動きに出てはだめですヨ」(『心を懸に、身を待にとも心得る也』兵法家伝書、懸待二字子細の事より)

 と指導してみたところ、その後、ぴたりと型が活きてきた。

 私の喉に付けられたAさんの木太刀の剣先がしっかりと活きて、まさに詰められている状態となった。

 これが意識の「き」の、実際的な効果というものである。

 一般的に、こうした指示を出すと、どうしても「殺意」や「殺気」、「攻撃心」が表に出てしまい、場合によっては身体が前のめりになって軸が崩れたり、剣先がピリピリ震えてしまったりするものだが、Aさんの場合、芝居や舞踏の経験から「心的イメージ/意念」の作り方と、そのアウトプットの仕方が上手いのだろう。スムーズに、待中懸を理解してくれたようである。

 懸中待と待中懸、それぞれの理解のためにどちらから指導すべきかという点については議論の余地もあるであろう。

 一般的に現代武道は、その教習体系からも、まずは「心をば待に、身をば懸に」というところ(懸中待)から学ぶことになるであろう。一方で、手裏剣術や居合・抜刀術、弓道など、仮想敵を相手とする武術・武道は、その教習上の特性からも、まずは「心を懸に、身を待に」(待中懸)というところからはじまる。

 しかし、懸中待と待中懸、どちらも活用できて、はじめて一人前の武術・武道人である。

 「両意なれども、極まる所は同じ心也」(兵法家伝書)。

 そして、ここで重要なのが、懸にしても待にしても、それを惹起するのは、意識であるということ。

 となれば、意識(心的イメージ/意念)はまさに形而上の武術的技術となるわけだ。


 このように武術・武道であつかう「気」は、あくまでも人と人との関係性の中での、意識の「き」であるということだ。

 これを突き詰めれば、兵法としての「位詰」の境地が、おぼろげならがも見えてくるであろうし、カルトじみた「気の武術」にだまされて、人生の貴重な時間と大切なお金をムダにすることもないだろう。

 (了)

※当庵でいう「左袈裟」は、自分から見て、1時の方向から7時の方向へ切り下ろす袈裟斬りである。右袈裟、左袈裟については、流儀や会派によって左右の名称と動きが異なるので、注意されたし。
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