殺陣と武術の根本的な違い/(武術・武道)
- 2010/09/21(Tue) -
 映画やテレビの殺陣(たて)の影響もあってか、剣術者や居合・抜刀術者以外の人は”逆手(さかて)”の抜刀に関心が高いようで、これについてよく聞かれる。

 曰く、

「(逆手の抜刀は)実際に遣えるのか?」
「古流の形(業)に逆手の技法はあるのか?」

 などなど・・・。

 まあ、私は”武術研究家”ではないので、自分自身が稽古してきたことや指導してきたこと、それらに伴う知見でしか論評できないけれども、その上で言えば、

「逆手の抜刀は、諸流に見られる」
「遣えるか、遣えないか、という問いかけに答えれば、”遣える”ということになろうが、座頭市やルパン三世の五右衛門みたいな使い方を想像しているのであれば、それはたぶん武術的にはほとんど無意味である」

 と答えている。

 
 以前もここで書いたかが、逆手の抜刀というのは剣先が伸びず刀勢も弱いので、斬撃としては極めて非合理的なものである。

 このため何がしかの限定的な状況下で、逆手で抜く必然性や合理性がある場合に用いる特殊なアプローチに過ぎない。

 時折、「(座頭市のような)逆手の抜きは、接近戦で用いるのでは?」とかいう、北野武監督『座頭市』の受け売りのようなことを言う人がいる。

 実際には、近い間合でも普通の柄の取り方のままで、いくらでも打刀の抜き方、斬り方、攻め方はある。それこそ業と身体の使い方次第だ(余談だが、私はどうも「身体操作」という言葉が嫌いだ)。

 つうか二本差しなんだから、近くて太刀が抜けない未熟者なら脇差か馬手差しを使え!

 なに? 浪々の身で、一本差だと?

 だったら、柔の当身や捕手で取り押さえろ!

 ・・・ってことである。



 とまあ、そんなことをつらつら考えていたところ、神道無念流の立居合の形に逆手抜刀があった。

 これは、

1 捕が背後から腕を回して抱きついてくる。
2 受は逆手で柄をつかみ、両肘を張って捕の腕をほどく。
3 そのまま逆手で抜刀し、自分の左肩ごしに、剣先で捕の顔面を突く。
4 受は右足を一歩引きつつ、逆手のまま刀を返してさらに背後を突く。
5 そのまま八相に構え、踏み込んで左袈裟斬り。
6 転身して左半身の右八相に構え、踏み込んで左袈裟。
7 逆手で納刀。

 というものである。

 この形は居合術の特徴のひとつである、「柔術と剣術の中間技法」という点を、よく表した形だといえよう。


 逆手の抜刀とは、このように特殊な状況の中で、それ(逆手の抜刀)が合理的であるからこそ用いられるものであり、なんの意味もなく逆手で抜くものではない。

 武術的合理性があるかからこそ、一人で行ずる武術の形は、(人に見せることが目的である)剣舞や殺陣とは根本的に異なるのである。

 同じような間違いに陥りやすい業(所作)に、神道流系の剣術などで見られる、太刀を片手八相にとり掌を開いた左手を前方に突き出した構えがある。

 一見、自分の左手を斬ってくださいと言わんばかりのこの構え。しかし、当然ながらそこには武術的合理性があることは、別に特定の流儀を学んでいなくとも、まともな稽古を積んできた武術・武道人ならば、ちょっと考えれば分かるはずであろう。

 それかあらぬか、武術的合理性を何も考えずに、形だけを模して「演武」するから、まるで歌舞伎の見得みたいな「演舞」になってしまうのである。

 「霞」や「水月」といった武術の理合、もっと有体に言えば「間合」や「見切り」、「視界」や「視野」などという点を頭に置けば、口伝をうけていなくとも、構えの意味はある程度は分かりそうなものだが・・・。


 手裏剣術にしても、武術として手裏剣術の研鑽を目指すのであれば、そこに武術的合理性があるのかを常に考えておかなければ、単なる的当てゲーム、あるいは殺陣や大道芸となってしまう。

 しかし一方で、武術的合理性に日本人特有の”用の美”の感覚が伴わないと、それは単なる格闘技に陥ってしまうだろう。

 ”見世物化”と”即物的下品さ”の狭間で、いかに術・道としての高い品位=「位」を目指すのか?

 この点に、本来的には暴力や殺人のためのスキルであった武術を、用の美と行動科学としての固有の文化にまで昇華させた、日本武道の本質的価値があると、私は信じている。

(了)
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