私的体術考/(武術・武道)
- 2010/12/01(Wed) -
 流れ武芸者である私の体術の素養は、柔術と空手道である。

 13~17歳までの5年間、大東流系のH流柔術・・・分かりすぎか(笑)・・・を伊豆のI先生にご指導いただいた。その間、17歳の時には、東京までT流柔術のK先生の下に通い、ご指導をいただく幸運にも恵まれた。

 また、剣術や抜刀術の旧師にも、いくつかの古流の技を参考として指導していただいた。


 その後、10年ほどのブランクをへて、29歳で伝統派空手道の門を叩き、昨年までおよそ10余年、稽古をしてきた。


 今の私は、手裏剣術を本科とし、剣術と居合・抜刀術を予科として、翠月庵で稽古と指導をしているわけだが、一方で体術は、あくまでも「純粋に自分のための稽古」と位置づけ考えている。

 その上で、この夏の転居後、改めて学ぶべき場を探し、先日から2つの稽古会へ参加させていただいている。

 1つは、武術としての身体操作を古流の形に還元しようというA稽古会。もう1つは、某古流柔術系現代武道の会派(我ながら意味不明の例えであるが、そこは大人の事情ということでご容赦されたし)のB会C支部である。

 いずれの稽古会にも、ご指導いただく先生方には、「手裏剣術や剣術・抜刀術、柔術や空手道などをたしなんできましたが、改めて初歩からご指導をお願いします」と申し述べた上で、入会をお許しいただいた。


 それにしても、我ながら白帯をきりりと締めるのも、なんとも懐かしい気分である。なにしろ、この前、白帯を締めていたのは前世紀の話だ(爆)。

 茶帯の先輩(高校生?)に稽古をつけてもらい、こちらが型通り動けずもたついていると、こっそり、しかし聞こえるように「チッ!」っと舌打ちをされたりするなど、格闘系武道の稽古特有の、いささか懐かしい感慨に浸ることしきりである(笑)。

 まあこれも、新参者が受ける洗礼というものである。


 しかし、なんといっても他流で一から学びなおすというのは、こちらとしても、それまでの我や執着を捨て去って、技も心もまっさらに、初学者として虚心で素直に学ばねばならないのは、言うまでもない。

 そしてまた、そういう稽古を改めてできることが、なんともすがすがしいのである。



 さて、それではなぜ、手裏剣術ややっとうに比べて、体術の稽古は私にとって「純粋に自分の稽古」なのか?

 手裏剣術ややっとうと異なり、体術というのは、武技そのものが現代社会のニーズにあてはまるものである。

 ありていに言えば、手裏剣や抜刀術は、護身術やセルフディフェンスに直結することはできないが、いまだに体術は直結する。それだけ、よりリアルで切実な技であり、稽古であるということだ。

 そういう意味で、私にとっては手裏剣術や剣術・抜刀術の稽古目的が武技の研究とその実践であるのに対し、体術の稽古は、フィジカルと護身という、きわめて切実なニーズなのである。

 当然ながらそれらはいずれも、最終的には武道の練成による事理の一致と、それによる人格の陶冶という目的に収斂されるわけだが、そこに至るモチベーションが、手裏剣術や剣術・抜刀術などの古典的武器術と、空手道や柔術などの体術とは、私の中で大きく異なるのである。

 とまあそういうわけで、しばらくはまた、先生と生徒という二足のわらじをはきつつ、稽古に励んでいく所存である。

 とりあえずは動き盛りな年頃の若い先輩方に、怒られないようがんばりたいものだ(笑)。

(了)
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