武術・武道に求められる自律性~応援不要論/(武術・武道)
- 2011/01/21(Fri) -
 私の本業は職業記者なので、言葉に関しては、多少、人様よりも耳と目が敏感になっている。

 例えば、パソコンの変換で「いあい」と打つと「居合い」と出る。この「い」が許しがたい。居合は「居合」であり、「居合い」ではない。これは、断固として譲れない。大道芸の「居合い抜き」は、「居合い」でもいいが、武術・武道としての「居合」は、「居合」でなければならないのである。

 一方で言葉というのは、あまり真正面から正論を発すると、いささか気恥ずかしいという場合もある。

 だから私は時に、「剣術」や「居合・抜刀術」などと書かずに、「やっとう」と卑下して表現するわけだが、最近は「やっとう」という言葉を知らない人が少なくないので困る・・・。


 話し言葉でも、同様に、ちょっとしたこだわりがある。

 私の空手道の師であるT先生は、40歳近く年の離れた弟子である私に対し、入門したときから現在まで一貫して、「市村さん」と呼んでいる。他の社会人の門人に対しても同様である。

 「弟子とはいえ、またどんなに若くとも、社会人である相手に対して、呼び捨てなどはできない」というのが師の考えであり、それをすでに喜寿を過ぎた武道の大家である師が率先して実践していることに、大いなる武徳を感じるのである。

 だから、今は故あって門下を離れてしまった不肖の弟子である私だが、生きている限りT先生を見習って、自分が何歳になっても、他者へは年齢や性別に可かわらず、必ず「~さん」や「~君」との敬称をつけて接していきたいと思う。

 このように、書き言葉にしても、話し言葉にしても、言葉は言霊ともいわれるだけあって、実体を伴った力をもっている。

 そこで思い出すのは、7年ほど前の夏、空手道の試合である。


 その日は、夏の合宿の最終日であった。

 合宿の仕上げとして、ミニトーナメントが行われた。炎天下の体育館で、一試合3分、勝ち抜きの自由組手である。1回、2回、3回と勝ち進んで準決勝の4回戦。相手は、私とほぼ同時期に入門し、段位も実力も拮抗しているA君。

 ただ彼は、私よりも10歳ほど若い・・・。

 わたしはもう、正直体力の限界で、あっさり負けてしまおうと思っていた。なにしろ合宿最終日で、ただでさえ疲労はピーク。その上、30歳代半ばすぎの私が、真夏の炎天下の体育館で(もちろんエアコンなどは無い)、20歳代のいきのいい、しかし段位は同格の連中を相手に、3分フルセットの試合を3回こなしての、4回目戦目なのだ。

 すでに、立ってるだけで、やっとなのである・・・。

 「あ~、もう適当に蹴られて、負けよう」。試合前は、本気でそう思っていた。

 しかし、そこはそれ、しょせんは私も因果な武道人である。「はじめ」の号令を聞いた瞬間に、勝ちに行こうとするわけだ(笑)。

 これが武術・武道人の性(さが)というものである。

 とはいえ、なにしろもう、全身ががたがたである。足は上がらず、手は伸びず・・・。とこころが相手のA君も、全身疲労困憊らしく、彼の足も上がらず、手も伸びない。

 こうなるともう、空手の試合というよりは、互いにもつれ合うばかりで、相撲同然である。

 何度も審判に、「わかれ!」と言われ、そのたびに距離をとり、突きなり蹴りなりを入れようと思うのだが、体がまったく動かない。

 そんなとき、試合を見ていた若い同輩B君の、「市村さん! 中段だ! 逆突きだ~!」という限りなく絶叫に近い声援が聞こえた。

 条件反射のようにスイッチが入り、倒れる込むような中段逆突きが決まり、私はなんとかA君に勝つことができた。

 ただし、この試合で私は親指を骨折してしまい、決勝戦は不戦敗になってしまった。まあ、仮に出ていたとしても、スタミナが完全に切れていたので、秒殺されていただろうことは間違いない(笑)。


 通常、試合に出ていると、緊張感や意識の集中から、周りの声や声援は、あまり聞こえないものである。というか、聞こえてはいるのだろうが、脳に伝わらないので聞こえない気がしているのであろう。

 しかし、この試合の時のB君の声援のように、ここ一番という時に脳に到達し、しかもそれが勝利につながる声援を受けたという体験は、試合をしたことのある武術・武道人であれば、だれしも1度や2度はあるのではなかろうか?


 さてここからが本題なのだが、それでは武術や武道の試合に、応援というものが必要なのであろうか?

 私自身は今、「必要ない」と考えている。

 この考えは、私淑する武道家・野中日文師の著作『武道 ― 日本人の行動学』(創言社)によって、蒙を啓かれたものである。

 野中師は、著作の中でこう指摘する。

 -本来の武は、「周りは全て敵」という気位で稽古を積み重ねるべきものである。それかあらぬか、「応援がなければ勝てない」では、到底、「周りは全て敵」という厳しい武の現実に対応することはできないだろう(以上、市村の意訳)-

 市村おもえらく、試合はあくまで「試し合い」であり、勝たせていただく、あるいは全力を尽くしたが力およばず負けてしまうものである。そして勝っても負けても、そこで得たものを、明日の自分の武の糧にするのが、武術・武道における試合の最大の意義だ。

 だとすれば声援・応援の類は、試合をさせていただく相手に対しては、きわめて無礼な振る舞いであり、試合に望む自分にとっては鍛錬の邪魔であろう。

 試合における、声援・応援の力、ありがたみを十分に知っているだけになおさら、私はこうした厳しい自律性が、スポーツではない、武術・武道には求められているのではなかろうかと思う。

(了)


 

 
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