多敵の位の考え方と、手裏剣術の極意/(武術・武道)
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- 2011/11/09(Wed) -
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多敵の位(対多人数)の稽古というのは、武芸をたしなむものであれば、誰しもが考えることであろう。
一方で、基本的に日本の伝統的な武芸の稽古は、一対一での型稽古が主流になっている。 これはなぜか? まだ、未熟で今以上に浅学だった私は、旧師にたずねたことがある。 旧師曰く、 「多敵の位といっても、結果的には瞬間的な一対一の戦いの連続に過ぎない。ゆえに、稽古においては一対一の攻防に習熟するべきであり、いたずらに多人数掛けをするのは、技の崩れを誘うだけで意味がない」 とのことであった。 当然ながらある程度、業に習熟した段階では、補助的に一対多の稽古を体験することは重要であるし、口伝によって多敵の位の兵法を学ぶことも必須である。 しかしそれらはあくまでも補助的なものであり、「術」の基本は一対一での稽古にあるのだ。 つまり、日本武芸の稽古における一対一という形式は、ことさら果し合いなどの行為にこだわったものではない。 一対一でも、一対多でも、いずれの場合でも対応できる「術」を実現するための、もっとも合理的な鍛錬方法が一対一での型稽古であり、先人たちはそれを経験として知っていたのであろう。 演武会などで見られる多人数掛けは、あくまでも「演武」なのである。 多敵の位と同様に、相手のしかけてくるであろう攻撃や、用いるであろう武器について、「こうきたら、ああする」的な対応をしようとすれば、結果として数万、数億、そして無限大のパターンを想定しなければならない。 これは一種のパラノイア状態である。 日本の武芸というものは、こういった戦いにおいての想定の無限ループから、いかに脱するかを求めて、先人が作り上げてきたものである。 無限の想定を限界まで演繹し、必要最小限の「型」(パターン)としてまとめ、それに習熟させる。 その結果、究極的には「型」(パターン)そのものが解体されて、「術」は極限までシンプルになっていくのである。 武術としての手裏剣術も、たとえば根岸流の極意だという「蟹目の大事」などは、まさに日本武芸の精華そのものであるといえよう。 翠月庵の手裏剣術も、技術体系としては刀法併用手裏剣術を到達点としながらも、本質的な「術」としての極意は、 「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」 この一言に尽きるといえよう。 (了)
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