陽と陰
- 2008/12/05(Fri) -
 空手の稽古をしていて良いことのひとつに、激しい稽古の最中は、浮世の憂さや、よしなし事をすべて忘れてしまえる、という点がある。

 基本稽古にせよ、形稽古にせよ、打ち込んでいる最中には、余計なことを考えている暇がない。組手の稽古に至っては言わずもがなである。

 ある意味で、空手に限らず剣道や柔道など、激しい攻防を稽古の中で日常的に行う武道は、総じて、その動きがきつい(運動の強度が大きい)だけに、簡単に集中することができる。


 一方で、居合や手裏剣術などといった、一人稽古が中心の武術・武道というのは、行為自体に没頭するのには、ある程度の慣れというか、「集中するための集中力」が必要になってくる。それだけに、とりあえず稽古を始めれば、だれでも簡単に集中できるというものではない。

 これが一人稽古主体の武術・武道の難しいところである。


 また、術技に関する上達過程も、両者は対象的だ。

 たとえば空手道で言えば、組手で勝つためには、まず自らの技を使用に耐えうるだけのものに仕上げた上で、それを「意思を持って動きまわる相手」に使用することを学ばねならない。破壊力満点の突きも、当たらなければ赤ん坊のグーと同じである。

 そういう意味で、技を練り上げるだけでなく、発することを学ばねばならない。いわば「陽」である。

 対照的に、現代居合道や従来の手裏剣術では、ひたすら技を練り上げる事に専念する。いわばその稽古は、内省の積み重ねである。それだけに、無限に厳しい稽古にもなりうるし、あるいは単なる旦那芸にもなる。

 まさに「陰」である。


 そして、「陽」にしても「陰」にしても、それぞれそれだけでは、非常にバランスが悪い。技はもちろん、身体も精神も偏る。そういう意味で、「陽」でも「陰」でも、精神が偏っている武術・武道人は、枚挙の暇もない。困ったもんである。

 だからこそ、たとえば空手道には組手と同時に形が必須なのであり、本来、剣術(道)と居合(抜刀)は両輪と言われるのであろう。

 こうした点で、最近はずいぶん偏見も少なくなってきたようだが、かつて過敏なほど「斬りの稽古」(いわゆる試斬)を嫌った居合道界の面々は、「陰」に偏りすぎであった。いまでもそうか・・・。また逆に、「居合を学ぶとクセがつく」といって、打刀の操法を学ばない剣道は「陽」に偏りすぎである。まあ、スポーツとして剣道をやるのなら、それでもいいんだが・・・。空手も同様に、形しかやらない、組手しかやらないという者は、それぞれ「陰」や「陽」に偏りが生じるのを、よく目にする。

 「中庸が君子の道」というのは、古代易経の知恵だけというものではなく、武術・武道にも当てはまることではないだろうか? 


 

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