鬼神を敬してこれを遠ざく/(時評)
- 2012/03/05(Mon) -
 夕刊紙などで、「神様は、お肉が食べたいと言っています・・・」というらしい、占師/霊能者と、そのマインドコントロール下にある女性芸能人の話題が盛んにされている。

 神様が食べたいという肉は、はたして豚肉なのか、牛肉なのか、羊肉なのか? そのあたりに興味がある・・・、というわけではない。


 神霊や鬼神と武術というのは、案外、近いところにある。

 由緒のある古い武芸の流派では、密教や修験道の呪法があったり、免許や印可の条件として、ある種の神秘体験を必要とすることもある。

 私もその昔、早九字の切り方など、旧師に教わった記憶がある。まあ、もう忘れてしまったけれども・・・。

 こうした背景もあってか、武術や武道を嗜む人には、信仰心の篤い人も少なくない。

 そもそも道場や稽古場では、まず「神前に礼」というのが習慣となっている世界であるからして、武芸と神霊がごく近い世界であるのは、当たり前といえば当たり前だ。


 さてその上で、私自身は、

 「限りなく唯物論者に近い、不可知論者」

 である。

 ゆえに、怪力乱神の類は信じない。

 とはいえ、私も惟神の道を敬する国に生まれ育ったものであるからして、世の中の何もかもが、すべて現在認識されているサイエンスで了解できるというほど傲慢ではないし、その昔の廃仏毀釈や、イスラム教原理主義者のように、宗教的施設や信心の対象をあえて破壊したり、冒涜したりするつもりもない。

 初詣もするし、寺に参拝もするし、教会やモスクに立ち入ることもある。その際には、それぞれに敬意を十分に払う。

 なぜならば、それが「礼にかなう」からである。

 でもやっぱり、「全知全能の神」とか、「願いをかなえてくれる救い主」とか、「人を呪い殺す霊」などというのは、ねえだろうなあと個人的には確信している。

 目の前に白刃を突きつけられたら、呪文を唱えるよりも、手裏剣を打つ方がいい、多分(笑)。

 兵頭流軍学風に言えば、他者の理不尽な暴力に対しては、呪文よりも手裏剣術の方が、より安全・安価・有利であるということだ。


 こうした心境にいたったのは、20代の中頃にかかわった、紛争地取材の経験が大きい。

 周囲の人間が簡単に殺されてしまうような、理不尽だがリアルな暴力が横行する社会で日常を過ごすと、「ああ、神も仏もねえよなあ・・・」と、しみじみ思わざるを得ないのである。

 神霊や怪力乱神による祟りや呪いがあるのなら、スターリンや金正日は、天寿をまっとうできなかったであろう。

 極悪非道の独裁者として何百、何千、何万もの罪なき人を拷問・虐殺した、ヒトラーやチャウシェスクやサッダム・フセインをこの世から葬り去ったのは、理不尽に虐殺された人々の怨念や、かれらの信じた神の力ではなく、国家や民衆による暴力=軍事力である。

 今も昔も、神様は助けてくれないのである。

 イエス様も、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と言っているではないか。


 一方で我が東洋では、いまから2500年も前に、孔子様はこうおっしゃった。

 「鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし(神霊を敬うが、それに頼らない。それが知恵というものだよ)」

 さらに、こうも言った。

 「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん(まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろう)」

  同様に、孔子先生と同じ時代の孫子は、こう喝破している。

 「祥を禁じ疑いを去らば、死に至るまで之く所なし(あやしげな卜占などをせず疑いのないようにすれば、死ぬまで動揺することはないのだ)」


 東洋の思想とは2000年も前から、かくもリアルで、しかも人に優しい。幾多の神々のように、人の犠牲など求めないのだから。
 
 私のような未熟な人間は、ただただ孔子様や孫子先生の箴言、東洋の智慧に、深くうなずくばかりである。

 (了)
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