潜竜、雨に泣く/(身辺雑記)
- 2012/03/24(Sat) -
 この1ヶ月、どういうわけか、週末になると雨が降る。

 そして、野天道場である当庵では、雨が降ると稽古ができない。

 というわけで、なんと! 2月25日以来、今日まで5週連続で稽古が雨天中止となっているのである・・・。

 2007年に当庵を開いて以来、足掛け5年の月日の中でも、このようなことは初めてだ。

 梅雨時であっても、せいぜい2週連続で雨で中止、というようなことはあったのだが、丸々1ヶ月、稽古ができないというような異常事態は、空前絶後である。


 とはいえ、なにしろ相手は天の気。

 三才の下位にある「人」がどうあがいても、天地の運行は変わることはない。

 たとえ一時の異常事態があったとしても、原則、天地の運行は粛々と、あるがまま続いていく。

 一説では今年、この世は滅びるとのことだが(笑)、べつに予言もなにも、黙っていても地球は、数十億年後には膨張する太陽に飲み込まれて滅びてしまうというのが科学的な事実であり、明日も数十億年後も、宇宙そのものの運行にとっては、あまり意味のある時差ではないであろう。

 そう考えれば、特段、あわてることもあるまい。


 12歳で柔術と抜刀術の門を叩いて以来、未熟者は未熟者なりに31年間、なんだかんだと稽古をしてきた上で思うのは、今回の「雨天で1ヶ月も稽古ができない!」というような状況、つまり、なんらかの外的な要因で、稽古を一定期間、中断せざるを得ない時期というのは、数年おきに必ず訪れるように思う。

 その理由は、たとえば仕事だとか、あるいは私事だとか、怪我や病気だとか、モチベーションの低下だとか、道場・稽古場の人間関係だとか、その時その時でさまざまだけれども、「稽古したいけれども、できない」という状況になってしまうことは、これまでも何度かあった。

 その上で、経験知として思っているのは、

「できないならば、無理にしなくてもいい」

 ということである。

 稽古したくとも、諸般の事情でできないのであり、その諸般の事情は、たとえば今回のような天候だとか、あるいは病気だとか、はたまた仕事がらみだとか、いずれの場合も己の力や意思ではどうにもならないことだからこそ、「したくても、できない」わけである。

 だとすれば、もうそれは時の流れに、ゆだねるしかない。

 そう思うようになったのは、30代の半ばくらいからだろうか。

 もちろん、その「稽古できない期間」も、たとえば自主的な稽古だとか、日常生活の稽古化など、できる限りのことをするのは言うまでもない。

 その上で、いままでのように稽古ができないのであれば、それはもう、いたしかたないことなのである。

 だから、「無理にしなくていい」のだ。

 そういう「時」が、斯道を歩む者には、必ず巡ってくるものである。

 そもそも稽古したくてもできないのだから、やりようもないわけであるし、そういう時は、酒でも飲みながら(下戸なら饅頭でも食べながら)、古今の書物にでもじっくりと取り組めばよい。

 先師曰く、
 
「学問せぬ武芸者は匹夫の勇にして、三味線弾き候 芸者も同様」

 である。


 一方で、これもまた足掛け30余年の経験知だけれども、「稽古したくてもできない」という状況が、永遠に続くということは絶対にない。これは断言できる。

 短ければ数週間から数ヶ月、長くとも十数年。

 それ以上の期間「やりたくても、できない」状況が続くことはまずない。20年以上も「やりたくてもできない」というのは、多分、本当はやりたくないのであろう。

 だとすれば、その時期が再びめぐってくれば、また稽古をはじめればよいのである。


 易に曰く、

「天行は健なり、君子自彊して息まず」

 という。

 あるいはまた、

「潜竜用いるなかれとは、何の謂ぞや。子曰く、竜の徳あって隠るるものなり。世に易(か)えず、名を成さず、世を遯れて悶(いきどお)るなく、是とせ見(ら)れざれども悶るなし。楽しめばこれを行い、憂うればこれを違(さ)る。確乎としてそれ抜くべからざるは、潜竜なり」

 ともいう。

 雑っかけに言ってしまえば、「ま、そういう時期もあるさ」と、いうことだ。

 大切なのは、再び立つための志を、失わないことである。

 (了)
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