「武士道」ってなんだ?/(武術・武道)
- 2012/06/04(Mon) -
 武術の稽古会を主催していると、いろいろ誤解されたり、予断をもたれることが少なくない。

 なかでもよくあるのが、思想的な問題である。

 ありていに言えば、「市村さんの思想は、やはり武士道ですか?」とか、言われることがあるわけだ。

 そういうときに、「おたくさんの言う『武士道』とやらは、いったいどこの誰さんが、いつの時代に、どのような思考体系と社会的背景に基づいて唱えたものなのですかね?」っと、小1時間ほど問い詰めたい気分になる・・・。

 が、しかし、そこはそれ社会人の常識として、そんなことは言わずに、

 「いや~、何しろうちの一族は、足利尊氏にこてんぱんにやられて皆殺しにされたもんで、わずかな生き残りも室町時代には帰農してしまったもんですから、武士道なんて高尚なものはとてもとても・・・」

 と、軽くいなすようにしている。


 さて、世の中に「武士道」を語る人は少なくないけれども、そもそも、その「武士道」ってなんだい? ってことである。

 歴史を振り返れば、現在のステレオタイプ的な「武士道」なるものは、日露戦争以後、白兵戦でガッツの無さが露呈してしまった兵士と国民の思想的脆弱性を鼓舞するために、国策としてリードされ新たに編まれた、比較的新しい考え方である。

 このあたりの経緯については、兵頭二十八氏の著作、『あたらしい武士道』や、『予言 日支宗教戦争』に詳しい。

 この、明治後半に意図的に編まれ、第二次大戦をへて、現在に至る、いわゆる“ステレオタイプ的武士道”は、結果として日本人の寄って立つ、「世界的に通用する普遍性を持った思想」になり損なった、ある意味、出来損ないの儒教の成れの果てである・・・、といっても過言ではないことも、また上記二書に詳しい。

 新渡戸稲造が明治の世に芽吹かせた、国際的に了解可能な、日本人の近代的自我たりえる「あたらしい武士道」を、 健全にすくすくと育てることのできなかった、わが国の過ちは、結果として1945年の敗戦にたどり着く。

 自ら開戦しないという世界に向けた「公的な約束」を平気で破り、戦機とその結果も考えず、選民思想と勢いだけで、国力20倍の敵との戦いに突入した、戦の専門家たる軍人たちの精神的な裏づけが、かつて新渡戸が種をまいた近代的理想としての「あたらしい武士道」とは似ても似つかぬ、カルト的似非武士道だったのは、返す返すも、日本人の悲劇であった。

 「日本は神の国であるからして、鬼畜米英に負けるはずが無い」という、根拠のないカルト的自信。
 「銃剣や軍刀で、自動小銃と戦う」という、戦闘的合理性の欠如。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」という、兵士の命を大切にしない前近代性。

 こんな無様で、想像力の欠如した、近代的武士道の権化だった昭和の武人(軍人)を、勝つためにありとあらゆる知力と合理性を駆使して脳髄をふり絞った、戦国時代の武士道に支えられた国人や地侍たちが見たら、どのように思うだろうか?


 江戸時代、平山子龍は、「学問せぬ武芸者は匹夫の勇にして、三味線弾き候 芸者も同様」と、指摘している。

 あるいは、いにしえの大陸では、すでに紀元前500年の段階で、戦の本質をこう喝破している。

「怒りはもってまた喜ぶべく、慍(いきどお)りはもってまた悦(よろこ)ぶべきも、亡国(ぼうこく)はもってまた存(そん)すべからず、死者はもってまた生(い)くべからず。ゆえに明君(めいくん)はこれを慎(つつし)み、良将(りょうしょう)はこれを警(いまし)む。これ国を安(やす)んじ軍を全(まっと)うするの道(みち)なり」 

(怒りは解けて、また喜ぶようになれるし、憤激もほぐれてまた愉快になれるが、いったん戦争をはじめて、もし失敗したとなると、亡んだ国はもう一度たてなおしはできず、死んだ者は再び生き返ることはできない。だから聡明な君主は、戦争については慎重にし、優れた将軍はこれをいましめる。これが国家を安泰にし、軍隊を保全するための方法である)

 (『孫子』火攻篇)


 さて、選民思想的な、誤った武士道という思想に導かれ、この国は将兵約230万、民間人約80万という、尊い命を失った。

 そしてその代償に、60余年の平和がもたらされた。

 にも関わらず、あいも変わらず選民思想的な、あるいは尊大な精神主義的な似非武士道なるものが、再び大手を振って歩くようになっては、日清・日露から第二次大戦に至るまでの、いや、「一所懸命」に領民と郎党を守った鎌倉武士以来の、この国の武人の魂が泣こうというものだ。

 義務教育で、武道が必修になったこの時代にこそ、自らを武人と思う人々自ら、「あたらしい武士道」を思索し、構築しなければなるまい。

 そのための、もっとも理想的かつ根源的な原テキストは、やはり新渡戸武士道しかあるまい。

 なぜならそこには、鎌倉以来の日本の武士階級の美徳が、ギリシア以来の西洋の知や倫理と比較対照され、西洋人にも理解できるよう平易に説かれているからだ。

(現代の日本人は、新渡戸が生きていた時代の西洋人と同じ程度に、古典的な日本文化の素養が欠如しているだろう)

 しかも新渡戸は、日本の伝統的な武士道が持たざるをえなかった、儒教的マイナス面(公的な約束よりも、身内を大事にする利己主義)を適切に排除し、日本の武士道を、西洋人にも了解可能な、普遍的かつ公正な「思想/宗教」として再構築しているのである。

 ゆえに、21世紀の武人が了解しておくべき、「あたらしい武士道」は、まずは新渡戸武士道を土台として出発することが、もっとも合理的であり、かつ建設的であると、私は確信している。


 「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかもしれない、しかしその力は地上より滅びないであろう。

 その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかもしれない。しかしその光明その栄光は、これらの廃墟を越えて長く活くるであろう。

 その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」
 ~新渡戸稲造~

 (了)
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