つよみの太刀、事理一致、そして稽古への切迫感/(武術・武道)
- 2012/09/05(Wed) -
A大兄

 前略

 お引き合わせいただいたB氏の件につきまして、丁寧なご返信ありがとうございまた。

>市村さんにも、ある意味でご迷惑と、失望を生んでしまい、
>申し訳なく思います。

 いえいえ、これは彼と私の関係性というか、縁が良くなかったということで、間に立っていただいた大兄には責任はないのですから、どうかお気になさらずにいてください。

 逆にある面では、彼のようなケースはこれからも同じようにあることでしょうから、今後の経験知をつませていただいたと思っています(笑)。

 思うに筋力の強い人は、どうしても腕の力による振りに頼ってしまい、「腰で斬る」ことができずに手打ちになるのです。

 その場合、斬る対象が動かない物体であれば、刀に刃がついていますからモノは切れます。

 しかし相手が人間の場合 、力が入りすぎた斬り込みは、見切られたり打ち落とされたりしやすく、また刃筋をまげてしまい、結果として相手(人体)を適切に斬ることができませんし、刀も傷めてしまうのです。

 ですから昔から、力任せの斬り込みは「つよみの太刀」として、戒められています。

 そもそも、日本刀というのは刃(やいば)がついているのですから、力を入れなくても斬れるのです。

 ある昭和時代中ごろの達人は、「今の打ち込みが弱いというのなら、さらに軽く打ち込まなければだめだ」と言っています。

 あるいは天然理心流の近藤勇は、「相手の剣先を軽く叩いて、それが柔らかければ相手は手ごわいが、逆にこわばっていれば、たやすく斬れる」というようなことを言っていたと伝えられています。

 なお余談ですが、力まずに、腕力ではなく「腰で斬る」ためには、まず正しい素振りの稽古をすること。そして太い木太刀や鍛錬棒を使い、運足をしながら「ゆっくりと柔らかく」素振りをすることで、手の内と腰の据わり=胆(はら)ができてくるのです。



 以上のような技術論はさておき、彼にはせめて日本武術の心法の基本であり精華でもある「残心」だけは、しっかりと理解してほしかったのですが、残念ながら私の力及ばずでした。

>「理」が理解できない人は、駄目だ、
>というのが、武術に限らず、共通することだと思います。

 本当にそう思います。

 武術に限らず、あらゆることに共通することですね。

 「理」が理解できなくても、「とりあえず」できる人もいるのですが、最終的には「理」を理解していないと、それ(業=結果)を確認することができず、説明することもできません。

 そういう技術(行動)は、結果として他者に伝播させることができませんから、客観性を持たない。

 つまり、

 「なんとなくできる。でも、自分でも良く分からない」

 というものになってしまう。

 そして、「よく分からないけど、できる」というのは、単なる偶然の連続に過ぎない。つまり、「再現性」に乏しいのです。

 そして、「再現性」に乏しいということは、

 「次も勝てる(負けない)かどうかは、運しだい」

 という、きわめて不確定な領域を脱し得ないのです。

 だからこそ、武芸の世界では古来から、「事理一致」ということが常に問われているのですし、一流の武芸者たちは自分の業を言語化する試みを、世阿弥の『風姿花伝』以来、数百年に渡って続けているのでしょう。

 一方で「理」の追求=言語化を究極まで突き詰めた上で、それでも「言葉にできない」部分というのが必ず武術にはあります。これを古人は「口伝」としてきました。

 「術」の全てが言語化できるわけではないということも、我々、武術・武道人は忘れてはなりません。

 いずれにしても、私のような市井の武術・武道人は、理の言語化ができないまでも、せめて己の中で「理合」を理解することを心がけねばなりませんね。



 一方で、このような稽古に臨むための大きな動機づけとなるのが、大兄のご指摘されている、

 「切迫して、困っているか、いないか」

 ということなのでしょう。

 武芸の世界観では、負けると死んでしまいます。つまり、常に究極の切迫感が、稽古(修行)の動機づけとしてあります。

 もちろん私を含め、現代の武術・武道人は、「負けたら死ぬ」というほどの切迫感はもっていませんので、ずいぶんレベルは低くなりますが(笑)、例えば試合や稽古でぼこぼこにされるとか、演武など公の場で恥をかくとういのも、1つの切迫感になるでしょう。

 さらに突き詰めると、

 「なぜ自分は、こんな平和な時代に、現代は通用し得ない古典的な人殺し技術を、 学び研鑽するのか?」

 という問いかけそのものが、精神的な切迫感につながると思うのです。ある種の「業(ごう)」として。

 こうした問いかけや、その回答としての精神的な切迫感のない人は、結果として「武術=命のやり取りを昇華させた日本人の行動科学」という文化遺産の本質を、理解することはできないでしょう。

>武術でも、禅寺でも、
>昔の、ほんまもんの人たちが、
>入門条件を極度に制限した心境が、
>しみじみと分かるような気がします。

 私も本当にそう思います 。

 そういう意味で翠月庵も、門戸を閉じるつもりはありませんが、さりとて意図的に稽古者を増やす必要もないのかなと感じている、今日この頃です。
 
 草々

 市村 拝
スポンサーサイト
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
| メイン |