ごまかしのない稽古~そして刀剣雑感/(手裏剣術)
- 2013/01/13(Sun) -
 昨日は今年の稽古始めの予定であったが、私の生業があまりにも多忙なこと、また、たまたま本日は稽古参加者が少ないことから稽古場での稽古は休みとし、来週から本格的な稽古始めとした。

 そこで、なんとか本日やるべき仕事を終え、自宅で1時間ほど剣を打ち、居合を抜いた。


■本日の稽古備忘録

 今日の打剣は次で終了・・・、そう思うと、不思議なことに失中することが少なくない。

 手裏剣術のメンタル的なデリケートさというのは今さら言うまでもなく、斯術を稽古しているものであれば、誰もが直面するシビアな問題だ。

 手裏剣術、弓術、そして各種武術における試物。

 この3つは、メンタルがてき面に「術」に影響し、そして結果のごまかしが効かない。

 刺さるか刺さらないか、斬れるか斬れないか、割れるか割れないか? これらの結果は一目瞭然であり、自分にも他人にも、はっきりと分かってしまう。

 こうした「ごまかしのない厳しさ」こそが、手裏剣術の難しさであり、魅力でもある。


 話しはそれるが、「ごまかしのない厳しさ」という意味では、居合や抜刀術の稽古でも、中級者以上になったら樋を掻いた刀をピューピュー鳴らせて悦に入るのはやめて、樋のない刀身でしっかりとした「刃鳴り」がするような「ごまかしのない」稽古をすべきであろう。


 さて本日は、二尺一寸の「無銘」と、二尺二寸一分の「長光」で、それぞれ居合を抜く。

 刀の使い勝手というのは、単に刀身の長さや重さだけではなく、何よりバランスが重要である。実際、長光は鞘を払って1キログラム以上の重さがあるが、バランスがよいため、稽古していると重さはそれほど感じない。
 むしろ長光よりも軽く、刀身も短い無銘の方が、両手持ちで真っ向正面を斬る時など、ややバランスに偏りを感じる。

 この無銘刀、いわゆる「片手打ち」用の刀で、茎が非常に短い。このため、両手で操刀する際や、試物を斬る場合などは、手之内を詰めねばならない。一方で、逆袈裟や横一文字、抜き打ちなどで片手で操刀する際には、刀身が短いこともあり、切先がよく飛び、たいへん遣いやすく感じる。

 この無銘は、錆身を格安で購入したもので、購入した段階で、刀身全体の3分の1以上に薄錆があった。刃切れや刃毀れこそないが、試斬に散々使ったのか、切先と、どういうわけかハバキ元付近がひどいヒケだらけ。おまけに所有者の腕がなまくらだったのか(笑)、鞘には納まるものの刀身がハバキ元から右に若干曲がっているという代物である。

 美術刀剣の視点で見れば、いわゆる典型的な「ガタナ」ということになるのだろう。

 私自身、試斬用と割り切って購入したのだが、がたついていた鍔や柄を自分で補修し、普段からこまめに手入をして稽古に使っていると、なにか不思議な愛着を感じるもので、近いうちに研ぎに出して、柄も新調したいと考えている(前の所有者の好みか、はたまた見栄なのか、茎が短いくせに柄が約8寸と長いのである・・・)。


 聞くところによると、美術刀剣の世界とはなんともオソロシイ世界で、「100万円以下のものは、刀ではない」などとおっしゃるバブリーな御仁がゴロゴロしているとか!?

 そういう目で見れば、この無銘刀など、まさにガラクタ同然なのかもしらん。

 しかし、武術・武道人が稽古に用いる「武用刀」としては、この無銘刀、けしてガラクタではない。

 なにしろ、斬り手がなまくらで刀身が曲がり、ヒケだらけになっていても、刃切れや刃毀れがないということは、刀としてそれだけの蛮用に耐えたということだ。

 なにより、まがりなりにもきちんと登録証がついている日本刀であるからして、どこかの刀匠が、いつの時代か分からないが、きちんと鍛錬して作り出した一口なのである。

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 ▲二尺一寸の「無銘」。鍛錬された年代も地域も不明。登録は岡山県で平成19年と、比較的新しい。この刀は、いつ、誰が、どこで鍛錬したものなのか・・・


 美術刀剣の魅力と、文化的・美術的・工芸的意義は非常に大切だと思うが、美術的あるいは投機的な価値の低い刀を、「カタナ以下のガタナ」とさげすむような風潮(伝統?)は、はたしていかがなものかと思う。

 たとえそれが、美術的・投機的価値のないものであっても、それが本物の刀である以上、一口一口に、それを鍛錬した刀匠たちの精魂が込められているのだから。


 まあ、こんな想いも、富裕層の皆様からすれば、所詮は「下流」に生きる流れ武芸者の、儚いルサンチマンなのかもしれぬ(苦笑)。

 (了)
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