「残心」と「位」、体罰教師とモリー先生/(武術・武道)
- 2013/01/19(Sat) -
 手裏剣術の稽古は、基本的に的打ちである。

 居合や柔術のような型稽古はないし、空手道や剣道のような自由な打ち合いの稽古もない。


 武芸の稽古は、型稽古でも、自由攻防の試合稽古でも、相手に対して「稽古させていただいている」という意識がないと、それは単なる弱肉強食のいじめに成り下がってしまう。

 純粋に勝敗を競うスポーツの試合でも、フェアな精神やスポーツマンシップがあるわけで、そこではともすれば武道など足元にも及ばない、峻厳な公正性が表現されることもあるのだ。

 いわんや、原初的に「相手を制圧する(殺傷する)」行為をベースにした武芸の稽古というものは、「相手になっていただいている」という、謙虚な気持ちがなければ、それは単なる強者のいたぶりになってしまうので、厳重な注意が必要であり、こうした目に見えぬ勘ばたらきというものが、「位」の学びとなるのである。

 ましてや手裏剣術や試物の稽古は、対象が物言わぬ的や巻藁、畳表や竹が稽古の対象なので、よりいっそう稽古における「位」が求められる。


 そういう意味で最近、試物の動画など見て思うのは、「位」や「残心」を無視した、ただただぶった斬り、あるいは剣を打ち込むだけの、粗暴で粗雑な自称・演武という行為が目に余る。それはもう、「演武」とは到底いえないようなしろものである。

 試物の稽古というのは、各流・各派の型に沿って斬るから稽古になるわけで、ただただぶった斬ればよいというものではない。

 同様に、打剣にしても、ただ打ち込みました、ただ遠距離で刺さりましたでは、武芸の稽古にはならないのである。

 ましてや、斬ったあとの試物を足蹴にしてどかしたり、斬り損ねた試物をほおり投げて捨てている姿などが写されていると、「これらの人々の師匠は、残心や位というものを、弟子にどのように指導しているのか?」と不思議でならなない。

 「残心」とは未来に心を致すことだ。今に囚われない、思考の飛翔である。

 「位」とは彼我の関係を一瞬で見て取る心の眼だ。野生動物なら、普通に持っている本能的な生き残りのための機能である。


 一方で、試合に負けた生徒を小一時間かけて、30~40発ぶん殴り、あまつさえ「お前、なぐられたくないなら、二軍だぞ」と脅かす教師は、己の行為の「残心」というものを、まったく理解していなかったのだろう。

 あるいは、暴力的な支配=指導力という、きわめて低レベルな「位」でしか、生徒(弟子)を統率できなかった哀れな小人だったのだ。

 こう考えると、武芸やスポーツの指導者などというものは、「残心」も「位」も「間合」もわかっていない、大馬鹿野郎ばかりなのだろうかと、暗澹たる気持ちになるのは私だけではあるまい。


 それにくらべてこの先生の、己の命をかけた「位」の気高さ、弟子に見せる「残心」の見事はどうだろう。

モリー先生との火曜日モリー先生との火曜日
(1998/09)
ミッチ アルボム

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 本当に強い人、本当に優しい人、本当に人を導く人というのは、こういう人のことなのだ。人の強さ、そして優しさというのは、腕力や暴力とはまったく別次元なのである。

 暴力バカの、我々武術・武道人には、遠く及ばない「人」としての本当の強さと優しさの境地がここにある。

 (了)
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