山人の幻想~伊豆修善寺~ 
- 2008/09/17(Wed) -
 先の週末は、久々に実家である伊豆・修善寺に帰省した。

 1年ぶりのふるさとは、変わるべきところは変わり、変わらないところは何も変わっていない。

 実家でごろごろしている暇つぶしに、自室の書庫をあさっていると、『伊豆歴史散歩 激動期を生きた山人のルーツ』(沢史生著/昭和53年/創元社)という本が目についた。

 少年時代から歴史に関する本が好きで、この手の郷土史の本をよく買って読んでいた。まちがいなく自分が買ったものなのだが、内容はすっかり失念していたので、ぱらぱらと数ページ目を通すと、これがまた、なんとも面白い。

 タイトルを一瞥すると、お約束の郷土の通史解説本、あるいは名所旧跡のいわれを集めた解説本かと思ったのだが、さにあらず。伊豆の梟雄にして鎌倉北条氏の祖である北条時政、そして後北条氏の祖である北条早雲こと伊勢新九郎長氏の活動を軸に、古代の製鉄民であり山人、なにより、まつろわぬ民であった伊豆の山の民の民俗史を概観するという、なかなかに凝った作りの作品であった。

 鎌倉幕府二代目将軍源頼家が、入浴中に「分銅を飛ばして首に縄を巻きつけ、引き倒して手足を押さえつけたうえ、睾丸を握りつぶして絶命させ」られた、修善寺温泉を流れる渓流・桂川沿いの筥湯(現在の筥湯は、平成に再建されたもの)。

 仏教普及の名のものとに伊豆半島の金属資源地の収奪を狙う、弘法大師の一軍が、地元に巣食う鬼=山の民を閉じ込め殲滅したという岩屋を祀る修蝉寺・奥の院。

 謀略の果てにこの地に追い込まれ、実の兄が放った討手の軍勢に打ち込まれ、はかなく自刃した蒲の冠者・源範頼の館跡で古代産鉄族の信仰に連なる日枝神社。

 筆者によれば伊豆・修善寺は、中世の血塗られた殺戮史の舞台であり、古代から連綿と続いたまつろわぬ山の民の隠れ里であったともいう。



 伊豆・修善寺は、私の母方であるT家の故里であり、私自身生まれてから20歳までこの地で暮らした。T一族は、その祖は執権・北条氏末期の直系に連なるといわれ、代々、天城連山に源を発する狩野川沿いのKという地区を統べた地侍の家と伝えられる。戦国時代には一族から、小田原北条氏の軍師となった、板部岡江雪斎という人物を輩出しているともいう。

 近世以降も戦前までは、それなりに裕福な家だったようだが、戦後の農地解放、また昭和33年の狩野川台風による大水害、なにより生涯、生業としての「仕事」というものをせず、鮎釣りだけに興じたという、いささかうらやましい祖父の浮世離れした暮らし、そして先代家長の死別を巡るトラブルなどで、今は往時の面影もないとか。

 もっとも、分家の次男、しかも少年の時分からいろいろ問題ありで、親族にも迷惑ばかりかけていた私としては、ここ30年近く本家とはほとんど交流はなく、こうした話がどこまで事実でどこまでが伝説、あるいは妄想であるのかは、さだかではない。

 ただし、不惑を目の前にして、いまだに武術・武道などという道楽にかまけている、私の浮世離れした所は、多少は伊豆の祖父の血を引いている証なのかもしれない。あるいはそれが、古代から伝わる「まつろわぬ山の民」の血のなせる業なのか・・・? などと妄想してみるのも、それはそれで悪くはないかと思う。



 幕末の開国時、アメリカ領事ハリスとともに下田に入り、そこから徒歩で伊豆の険阻・天城峠を越えた通訳のヒュースケンは、伊豆を「島よりも、もっと日本に近寄りがたい一片の土地」と評したという。

 古代、遠流の地であり、中世までは山の民の地であった伊豆は、幕末の世でも、険阻な山と谷に囲まれた「地の涯」だったのだろう。


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