時代という制約~『臨戦刀術』雑感/(武術・武道)
- 2013/04/18(Thu) -
 成瀬関次師の『臨戦刀術』を、少しずつ読んでいる。

 昭和19年の著作であり、太平洋(大東亜)戦争末期の時代背景からも、その内容はいろいろな意味で複雑だ。

 自身、軍属として中国戦線に従軍し、軍刀の修繕をしていた同師の、自らのあるいは前線で見聞した実戦譚は非常に生々しく、「こりゃあ、とても復刊は無理だな・・・」と思う。

 読了後は、ここに摘録を挙げてみようかと思っているが、とりあえず現時点で、興味深いなあと思った点をいくつかメモしておこう。



 昭和19年といえば、いまから69年前にもなるわけだが、「最近は、伝系を偽る偽古武術が横行していて困る・・・」と、成瀬師は嘆いている。結局、いつの時代も、そういう輩は尽きないのだなあと、みょうにしみじみ思った次第(笑)。

 現代(昭和19年時点)の戦場においては、彼我、刀や銃剣をもって丁々発止と斬り合うなどという場面はまったくない。あるのは、壊走する敵軍を追撃している場面で斬撃を加える機会があるか、あるいは捕虜を斬罪にするときのみだという。まあ、当たり前といえば当たり前だ。

 実際に相手を刀で斬り得る間合とは、自分の手が相手の胸に届く距離である。

 古式では、人を斬った後、刀身にぬぐいをかけるために、柿渋で染めた手ぬぐいを2枚用意し、1枚を懐に、1枚を左腰にたたんで手挟んでおく。手ぬぐいを柿渋で染めることで、ぬぐった血の色がわかりにくくなる。

 手裏剣術では、「二十尺(約三間強)位の距離以内で前後左右自由自在に的が打て、八寸的に10本打って、平均して6本が的中するようになれば、昔の目録、今日(昭和19年時)の錬士、段階なら四段~五段に相当し、極意として『蟹目の大事』を授けられる」。


 
 同書を読んでいると、いわゆる戦前の軍事における精神主義・白兵主義が、どのように称揚されていたのかが、たいへんよく分かる。

 旧軍首脳部が、日露戦争における絶望的な弾薬不足、さらに第一次大戦での列強の圧倒的な弾薬消費量と、それを支える工業基盤の充実を見て、「到底、日本は近代火力戦を遂行できない」と自覚していたこと。また、実は第一次大戦までは、軍事の先進地域であった欧州各国も、白兵重視主義であったことなども踏まえて、戦前の日本の白兵重視、精神力重視の姿勢は、「未発達の工業後進国の、悲しく、止むを得えぬ選択」であったことは、理解しておく必要があろう。

 過去の歴史を現代から神の視点で見て、批判を加えるのは簡単だが、いつの時代も人は、その時代の物理的・精神的・地政的制約の下で生きている。

 そういう意味で、本書において成瀬師は武術家として、「いかに良く、白兵戦を戦うか?」を、繰り返し説いているが、それをもって現代の視点から「近代戦を知らぬ時代遅れの武芸者」と切り捨てるのは、いかにも浅はかだ(実際に、そういう批判をしているブログがある)。

 むしろ、小銃弾もろくに生産できぬ貧乏国家の軍隊が、与えられた条件の中で、いかに戦場で最善を尽くすかについて、「武芸者の視点」から可能な限り、有益と思われる意見を具申していた、と私は考えたい。


 たとえば、もし私が69年前の前線で、三式軍刀か14年式拳銃のどちらかを選べと問われたら、どのような選択をするだろうか・・・?

800px-Nambupistol2465.jpg
▲旧軍制式の十四年式拳銃。使用する8×22mm南部弾は、米国の45APCや欧州の9mmパラベラム弾に比べると威力に劣るが、軍用拳銃弾としてそれなりの威力があったという(写真はウィキペディアより引用)


ura_toushin.jpg
▲戦中に作刀されたと思われる、我が愛刀・市原長光。軍刀として参陣した長光も少なくなかったであろう……


 平成25年の私であれば、迷うことなく14年式拳銃を選ぶ。

 一方で、昭和19年の私は、間違いなく三式軍刀を選んだだろう。

 時代の制約というのは、合理性よりもむしろ精神=雰囲気にある以上、個人もその制約から逃れることはできない。その制約を突破できる人は、ごく一握りの賢人だけだ。

 ゆえに昭和19年に生きる私という凡人は、火力(拳銃)よりも精神(刀)を選んだであろうことは間違いない。


 翻って平成の今、われわれはどのような時代の精神=雰囲気の中で生きているのか? よくよく吟味する必要があるのではなかろうか。

 (了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
| メイン |