「ニコラス・トラウマ」の自己分析/(武術・武道)
- 2013/05/05(Sun) -
 大型連休も、残すところあと1日・・・。だからかどうか知らないが、今日はいつになく拙ブログのアクセスが多い。といっても、まあ約80人様(笑)。通常、常連の読者の皆様は30人くらいなので、いつもの倍以上なわけだが、これもニコラス“刑事”のおかげなのだろうか?


 怪作・リメイク版『ウィッカーマン』を見て、いつになくどんよりした不快感を感じ、プチPTSDになってしまったのだが、この不快感(ニコラス・トラウマ)について、ちょっと自省してみた。

 この映画よりも、もっと救いのない、あるいはもっとグロくて後味の悪い映画を散々見てきた自分が、なんでこんなに後味の悪さを引っ張るのか?

 私が感じたこの映画ラストでのトラウマポイントは、次のようなものだ(なお、以下の内容はネタばれになるので、そこんとこヨロシク)。


1.殺意をもった群集に、丸腰でとり囲まれる
2.その場所は、絶海の孤島の中の開けた平地で逃げ場がない
3.しかも、お日様さんさんの真昼間である
4.群集はカルト宗教を信じる狂信者(自分のヨメ・ムスメ含む)
5.拉致された後、両脚を折られて逃げられない
6.おまけに自分の一番嫌いな生き物(映画では蜂)に、むりやり顔面を刺されまくる拷問を加えられる
7.その後、生きたままじわじわ焼かれる
8.それを見て、カルト信者の皆さん、大喜び
9.主人公、恥も外聞もなく、命乞いをする
10.「どんでん返しで、助けがくるのか!?」と、思いきや、結局、焼かれて死んじゃう


 まず1.~3.についてだが、脳みそラリパッパの狂信的な群集(ざっと100人くらい?)、しかも我に殺意をもった人々に取り囲まれて、丸腰でいるというのは、武芸をたしなむ者としては、非常に嫌な状況であることは言うまでもない。

 しかも場所は絶海の孤島。そして真昼間の開けた平地で、隠れる場所もなく、周囲には武器の代わりになるような石ころや木の枝ひとつとてない。

 こりゃあ、どうにもなりませんね・・・。

 これが、森の中とか山地、大都市の街中などで、相手が最大でも20人くらいで、夜だったら、まだなんとかなりそうな気もしないでもない。

 たとえば森林なら起伏や潅木を利用することができるし、木の枝や石などを武器にすることもできよう。街中でも同様だ。しかし、草原のような広場では、どうにもならん。おまけに相手の数が多すぎ&農機具みたいなので武装しているし・・・。真昼間なので、闇に隠れることもできない。

 つまりこのシチュエーションというのは、1対多数で戦うことを考えると、あらゆる意味で最悪の「場」であるということだ。

 なにより嫌なのは4.の点である。

 通常、まともな人間には、「痛み」や「苦しみ」、「恐怖」などの感情がある。ゆえに、1対多数の闘争でも、これらが利用できるのだ。具体的には、最初の相手を徹底的に派手に傷つける、あるいは「せめて1人は、道連れにして殺す」といった気概と姿勢を見せることで、他の相手の戦意を挫くことも可能だ。

 しかし宗教や思想などで洗脳されていて、「恐れ」や「痛み」を感じない(予測しない)集団や個人には、こうした心理的な兵法が通じない。このような集団による人海戦術ほど、恐ろしいものはないのである。

 つまり1~4.までのトラウマポイントをまとめれば、「兵法の視点から見て、最悪の状況」ということだ。


 一方で、5.~10.は、危機においての己のありようの問題である。

 5.の「脚を折られて逃げられない」というのは、逃亡の可能性を完璧にたたれた状態である。ロープで縛られたとか、鎖でつながれているというならまだしも、両足を鈍器で折られたら、孤島から逃亡できる可能性は0パーセントだ(映画『ミザリー』では、折られた〔切られただっけ?〕のは片足だけだったから、まだ救いがあった・・・)。

 6.の「自分の一番嫌いな動物(映画では蜂)に、むりやり顔面を刺されまくる拷問」。これは、精神を打ち砕かれるという意味で、非常にダメージが大きい。こういう拷問で、心を折られてしまうと、もう逃げる気力、反抗する意欲もなくなり、どうにもなりますまい・・・。

 7.の「生きたままじわじわ焼かれる」というのは、非常に苦痛なのだそうな。その昔、中世の異端諮問では、「頼むから、殺してから焼いてくれ」と被告が懇願するほど、生きたまま焼かれるのはつらいとか。

 8.の「それを見て、カルト信者の皆さん、大喜び」と、9.の「主人公、恥も外聞もなく、命乞いをする」というのも、(映画を見る側の)精神を打ち砕く。もし主人公が、「くそったれ! 手前ら、必ず呪ってやる! 祟って、皆殺しにてやる! ぶっ殺してやる!」などと、罵詈雑言をはきながら焼き殺されたなら、まだましだったろう。

 しかしこの映画でニコラス“刑事”は、にこにこと笑ってニコラス“刑事”が焼け死ぬのを見物しているカルト信者の皆さん(自分のヨメとムスメ含む)に、「助けてくれー!」「神様ー!」っと、恥も外聞もなく懇願し続けるのである。

 しかし、当然ながら、神様も、カルト信者の皆さんも、だれもニコラス“刑事”を助けてはくれない。その情けなさ、哀れさが、無情さが、見る者の精神にさらなる不協和音を突きつけるのだ。

 そしてとどめが、10.の「『どんでん返しで、助けがくるのか!?』と、思いきや、結局、焼かれて死んじゃう」である。

 実際、普通に考えれば、あの状況で助かるはずがないのだが、「前の場面で、携帯が突然つながったってことは・・・? ハリウッド映画なんだから、きっと最後は助かるんだろう・・・。あるいは、主人公の夢落ちとか?」、などとと思うのであるが、あっさりとニコラス“刑事”は、こんがりローストされてしまうのである。

 ま、現実世界でも、究極のピンチにタイミングよく助けがくるなどということは、ほとんどありえないのだが。

 じつは私自身、その昔、中東のとある僻地の村で、自分の乗っている車を地元の群集に取り囲まれ、危うく車から引きづり出されそうになったことがある。このときは、ドライバーの機転でなんとかことなきを得たけれど、その恐怖の記憶が、この映画によるトラウマをさらに引き出したのかもしれない・・・。



 考えてみると、たとえば映画版『子連れ狼』シリーズで、なぜ若山富三郎先生扮する拝一刀が、100人や200人の敵を相手にたったひとりで戦って、たびたび危地を脱しえたかというと、

1.重武装している(刀、槍、長刀、短刀、機関銃を常に装備。しかも防弾仕様の乳母車付)
2.地形を最大限に利用して戦う(山、川、林、塹壕などを利用。時には子供そものを利用して、相手をだまし討ちする)
3.相手の精神を打ち砕く(相手によっては、公儀介錯人・拝一刀の名前を聞くだけで、びびって戦意喪失)
4.常に移動しながら、相手を各個撃破していく(絶対に、その場に居着いて戦わない)
5.そもそも本人が、バケモノじみて強い(なんたって、若山富三郎先生だ・・・)

 だからである(これだけの条件がそろっていても、『子連れ狼 親の心、子の心』のラストでは、若山先生は瀕死の重傷を負ってしまうのである)。

 これらの条件は、『ウィッカーマン』のニコラス“刑事”には、まったく当てはまらないのだ。


 さて、このように考察すると私は、

 丸腰のまま殺意を持った狂信者の皆さんに取り囲まれ、逃げるすべもなく拉致され、拷問を受けて両脚を折られ、生きたまま火に焼かれ、恥も外聞もなく命乞いをするも相手にされず、殺される

 ことが、怖ろしいらしい・・・。

 ま、当たり前だ。

 ということは、「ニコラス・トラウマ」を解消するためには、

 そいういう危地に陥らないために、いかに武芸者としての智慧と業を危地で活かすか? そして、やむを得ず最悪事態に陥ったら、いかに覚悟を決めるか?

 ということが肝要なのだろう。

20121122113155.jpg
▲死に臨んで、人がどれだけみっともなく、哀れな存在なのか? 
それを体現してくれたのが、テレビ版『子連れ狼』で、金田龍之介
氏が演じた公儀お毒見役・阿部頼母、その人だった。「じにだぐな
いー(死にたくないー)!!!!!」という無様な叫びと、最後の
最後に拝一刀に介錯をしてもらう際に流した諦念の涙は、命に執着
する、私自身も含めた平凡な人間の哀しさを象徴しているようだっ
た。頼母よ永遠(とわ)に・・・


 とりあえず、行方不明者を探しに、一人で閉鎖的な孤島を訪ねるときには、十分な注意と武装、できれば特殊な装備を加えた乳母車が1台必要だと、改めて実感した次第である。

 (おしまい)
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