「立って、そして闘いなさい」/(武術・武道)
- 2013/10/29(Tue) -
 ちょっと昔、まだ空手道の試合に出ていたころ、試合を見に来た知人から、「あんなに殴られたり、蹴られたりして、痛かったり、怖かったりしないの?」とよく聞かれた。

 当然のことながら、稽古を積んでいる武道人でも、殴られたり蹴られたりすれば痛い。また試合の前、ことに初めて試合会場で手合わせする相手というのは、なんとも怖いものだ。

 それでも冷静に、「殴る蹴る」ができるのは、痛みや恐怖をコントロールできるからである。


 一般の人と、ある程度稽古を積んだ武術・武道人の違いというのは、たとえば、

 顔を殴られると、どれくらい痛いのか?

 腹を蹴られると、どれくらい痛いのか?

 畳や板の間、地面やコンクリートに投げつけられると、どれくらい痛いのか?

 首を絞められると、人間はどうなるのか?

 などといった苦痛について、体験的に知っており、その苦痛を「主体的に経験してきた」ということであろう。


 しかも、それは武術・武道という、古来から試行錯誤が繰り返されてきた指導体系に基づいているために、段階をへて、しだいに痛みや恐怖の強度が高められることから、基本的には、だれでも適切な指導を受けて稽古を積むことで、苦痛や恐怖に対応できるようになっているのだ。

 ゆえに、たとえばもし、稽古を始めて3ヶ月の相手に、思い切り上段回し蹴りをぶち込むような空手有段者がいるとすれば、そいつはアホウである。

 あるいは、受身もできない初心者を、片羽締めで落とすような柔道有段者がいたとすれば、そいつはキチガイなのである。


 このように、スポーツが次第に運動の強度や負荷を上げていくように、武術・武道は形稽古や乱捕り、試合などの段階的な稽古のなかで、「痛み」や「恐怖」への対応力を上げていくようなカリキュラムになっている。

 一般的には、現代武道でいえば有段者(二~三段)、古流なら切紙を過ぎて目録の手前くらいになると、自分の感じる「痛み」や「恐怖」を、それなりにコントロールすることができるようになるはずだ。

 これは、そのレベルにいたるまでの稽古で、なんども「痛み」や「恐怖」の体験を繰り返し、時にはその痛みや恐怖に飲み込まれて逃げてしまったり、おびえてしまったり、そういう経験を何度もし、しかしそのまま逃げることなく、立ち向かっていったからこその有段者・目録者であり、立ち向かってきた彼らだからこそ持つ、痛みや恐怖に対する対応能力なのである。


 かく言う私も、これまで殴り合いや打ち合いの恐怖に飲み込まれたことが何度もある。

 特に記憶に強く残っているのは、今から10数年前のことだ。

 あるとき、私は外国人との組手で顔面への蹴りを受けそこね、奥歯を折られてしまったのだが、その数日後の稽古の時である。

 いつも通りの組手の稽古で、相手が軽くジャブのように突いてくるだけで、自分の顔が無意識に後ろに引けてしまったのである。本当に軽く、相手がちょこんとついてくるだけなのだが、自分の意識とは無関係に、顔を大きく背けてしまったのだ。

 そのうち、「顔をたたかれたくない」という恐怖心が、さざ波のように押し寄せてきて、格下の段位の相手との稽古でも、顔が逃げてしまう。そして有段者にはありえないことだが、「組手中に、相手が攻撃をしかけてくると、目をつむってしまう」という、最悪の状態にまで陥ってしまった。

 いわゆる、「心が折れた」という状態である。

 あまりの無様さに、その日の稽古後、師範から「しっかりしなさい!」と、厳しく叱責されてしまうほどの醜態であった。

 自分の意識や気力とはまったく無関係に、体が逃げてしまう。そして次第に恐怖心の波が、小波から大波のようになり、最終的には気持ちがすべてそれに飲み込まれてしまう・・・。

 稽古後、己を振り返ってみて、「ああ、これが本当の恐怖心なのか・・・・」と、しみじみ感じた。


 では、この恐怖心をどう克服したのかといえば、その後の稽古で、

 「相手に打たれようが、蹴られようが、歯がまた折れようが、こちらから先に体ごとまっすぐ突っ込む」

 ことを、自分に徹底的に断固として「強制」した。

 相手の攻撃を受けようとか、捌こうとかするから、恐怖で顔をそむけ、体が固まってしまうのである。ならば、とにかくこちらから、先に突っ込む。顔が無意識に逃げようが、腰が引けようが、とにかくこちらから突っ込むのだ。

 当然ながら、最初は顔はのけぞり、目は閉じ、しかも腰が引け、とても有段者の組手とは思えない無様さである。しかも、むやみやたらに突っ込むのだから、相手からすればカモだ。いわゆる「待ち拳」(カウンター攻撃)というやつで、ボコボコにされる。当然である。

 組手のたびに、突っ込んでは蹴込みをぶち込まれて悶絶し、あるいは投げ飛ばされて板の間に叩きつけられ、次第に痛みや恐怖も麻痺してくる。

 すると「もう、どうでもいいや・・・」という、ある種、捨て鉢な気分になってくる。こうなると不思議なことに、体が逃げなくなってくるのである。そのうちに、以前と同じように相手の動きを見られるようになり、体も自然に動けるようになってきた。

 結局、試合で歯を折られてから元の状態に戻るまで、延べ2週間ほどがかかった。



 今、振り返って思うのは、一度あふれ出してしまった恐怖心は、無理に押さえ込もうとしても無駄だということ。むしろ押さえ込むのではなく、怖いと思う心のままで、恐怖の対象に「入っていく」ことが、重要なのではないかと思う。

 恐怖を感じることは、恥ずかしいことではない。

 それどころか、危険に対して適切な恐怖を感じられるからこそ、それをコントロールし相手を制御・制圧できるのであり、それを学ぶのが武術・武道の稽古なのだ。


 え? 今も殴り合いは怖いかって?

 そりゃあ、怖いヨ(笑)。殴られると、痛いからねえ。

 だからこそ武術・武装人は、常に「勁(つよ)く」あるべく、昨日の己を凌駕するために、今日も稽古を続けるのだ。

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「リングに上がるとき、ボクサーは誰でも恐怖で凍り付いてしまう。その恐怖をどう克服するか? 修練しかない。人は熱心に励(はげ)むことによって、恐怖を友人にすることが出来る」(マイク・タイソン)

「立って、そして闘いなさい」(エディ・タウンゼント)


 (了)
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