真剣勝負/(手裏剣術)
- 2014/03/29(Sat) -
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▲三間直打。板金を打つ心(渾身の打ち込み)での打剣。四寸的にまとまらず。我、未熟なり


 本日は、演武会向けの稽古に集中する。

 今年の演武では、武術としての手裏剣術として、間合、拍子、位、運足、体働など、あらゆる意味で「挑戦」する演武をする。


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▲今年は、これも披露する


 試合も地稽古もない、型稽古や的打ちを主たる稽古とする武術・武道において、演武というものは唯一の「真剣勝負」である。

 ところが不思議なことに、演武を大事にしない者が時折いる。しかも意外なことに、そういう者はどういうわけか、古流「のみ」しか稽古してこなかった者に、時折見られる。

 一般の稽古者どころか、宗家や指導者レベルにもかかわらず、「あんた、明らかに最近、稽古してねえだろう!?」といいたくなるような、お粗末でぬるい演武をする人々が、時折(結構?)いるのである。

 思うに競技武道の稽古者や、古流と現代武道を併習している人のほうが、演武に対する真剣さをより強く持っているように感じるのは私だけだろうか。

 おそらくそれは、「勝負心」というものの差なのであろう。

 現代武道の経験のない古流のみの稽古者の中には、稽古不足を理屈ではぐらかす者や、厳しい稽古・痛い稽古をしたがらない者が少なくない。そんな彼らは、自分の思うままには動いてくれない他者との勝負の難しさや、その結果として悔しさや喜びを知らないのであろう。

 また、そういう者は自分自身の演武はもちろん、他者の演武も大切にしない。

 自分たちが、ぬるい演武やしょっぱい業しか披露できないものだから、他者の演武にも真剣になれないのであろう。


 「武」とは本質的に、過酷で苛烈な命のやり取りである。

 だからこそ私は、自分にも他人にも半端な演武=勝負を許すような、独りよがりのぬるい脳内武芸者にはなりたくないし、そんなしょっぱい門下も育てたくない。

 他の芸事はどうか知らないが、手裏剣術者にとっての演武は、厳しく真剣な「勝負の場」なのである。

 現代の武芸について、「稽古することの楽しさ」を、私は否定しない。むしろ、その楽しさを、私自身も享受している。

 しかし、楽しいだけが武芸ではない。


 楽しいだけのことがしたいなら、酒でも飲んでいればいいし、酒が飲めないなら饅頭でも食っていればいい。酒も甘い物もだめだという朴念仁は・・・・・・、昼寝でもしてみるしかないね。

 (了)
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