剣を打つ、ということ/(手裏剣術)
- 2014/05/25(Sun) -
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 翠月庵を開いてからすでに6年が過ぎ、今度の9月で丸7年となる。

 早いものだ。


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 時が過ぎるばかりで己の技量の上達は覚束ないが、少なくとも開庵時よりは、打剣のレベルは上達しているだろう。

 「あなたのような入門希望者は、いままでにも数十人あったが、続いたものがほとんどいない。それほどこの道は入りがたく、達しがたいのである」(『手裏剣の世界』白上一空軒著より、根岸流・成瀬師の言葉)

 偉大な先達の言葉通り、この術の稽古は地味で難しく、厳しい。

 当庵でも、見学・体験だけで二度とこなかった者、ほんのわずかで稽古から足が遠のく者がほとんどで、現在、3年以上稽古を継続し、直打で5間以上を通すことができるのは、私を含めてわずか3名である。

 主宰である私自身、「なんでこんなに難しく厄介な術を、わざわざ自分の武芸の本義にしているのだろうか・・・」と、思うこともしばしばだ(苦笑)。

 個人的には、ことさらに手裏剣術の難しさをアピールするようなことはしたくないし、「できるだけ短期間に、直打法の最初の壁である3間を通させる」というのが当庵のウリのひとつでもあるわけだが、実際のところ手裏剣術は難しい。

 特に初学者にとっては、武術としての打剣うんぬん以前に、的に剣が刺さるようになるまでが容易ではない。しかも手裏剣を打つたびに、的に刺さらない惨めな自分の打剣を見せつけられ、一打ごとに「自分がいかにできないか」を実感させられるのである。

 この点が、たとえば下手は下手なりになんとなくさまになってくる形武道や、たとえ初心者でも相手も同じ初心者であれば試合などで勝つこともある競技武道の稽古と、手裏剣術の稽古の大きな違いだ。

 一方で、渾身の一打が狙い通りにずしりと的に刺さった時の独特の感覚は、手裏剣術者だけが味わえる特別なものだ。

 その瞬間、的と剣と自身がひとつの見えない線(軸)で繋がり、一体となるようなあの感覚は、我々だけが知る世界と言ってもよいだろう。

 「分かるかな? 分かんねえだろうなあ・・・」(by松鶴家 千とせ)

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 到来物の本場の韓国海苔(うまい!)を肴に、最近気に入っている秋田の地酒「神月」を飲みながら、つらつらとそんなことを考えた週末であった。

 (了)
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