真夜中の『老子』/(身辺雑記)
- 2014/10/04(Sat) -
 御嶽山の噴火に続き、今度は大型で非常に強い台風18号が勢力を保ったまま日本列島に向かってきているとか。

 自然は過酷だ。


 昨晩は思うところあって、久々に『老子』を紐解く。

 「天地には仁愛などはない。万物をわらの犬として扱う」

 などという一文は、多大な被害を出した天災の報道を聞いた後にはいっそう大きく響く。


 血気盛んで心身充実していた若い頃は、

 「『老子』など所詮は敗北主義の隠逸思想。弱者の哲学に過ぎない!」

 などと断じて斬り捨て、もっぱら『孫子』に親しんできた。

 しかし不惑をとうに過ぎ、天命を知る歳も目の前に迫ってくると、兵家の思想にいささか倦んでくることも否めない。

 それに比例して『老子』説くところの、弱さやテキトーさ、矛盾を内包した「隠逸の思想」が、より身近にそして切実に感じられるようになってきた。


 兵は不詳の器にして
 君子之器に非ず

 已(や)むを得ずして之を用うれば
 恬淡を上と為す

 勝ちて美とせず

 而(しか)るに之を美とする者は
 之殺人を楽しむなり
 それ殺人を楽しむ者は
 以って志を天下に得べからず



 などという一文も、かつてはどうとも思わなかったが、最近では「そりゃあ、そうだよね」と読める。

 つらつら思うに、 『老子』を受け入れるというのはある種の諦念であり、不可逆的に衰えるべき心身を宿命づけられた三才の下位たる「人」の業(ごう)とでも言うべきか。


 名と身とはいずれか親しき

 身と貨とはいずれか多なる

 得と亡とはいずれか病なる

 是故に甚だ愛すれば必ず大いに費え
 多く蔵すれば必ず厚く亡う

 足るを知れば辱められず
 止まるを知れば殆(あやう)からず
 以って長久なるべし 


 
 いまだ足ることを知らぬ、一匹の「わらの犬」に過ぎない己ながらも、秋の夜長、無為自然の境涯にふれるのも悪くない。


 道の道とすべきは、常の道にあらず。
 名の名とすべきは、常の名にあらず

 無は天地の始に名づけ
 有は万物の母に名づく

 故に常に無は以ってその妙を観(シメ)さんと欲し、
 常に有は以ってその徼(キョウ)を観(シメ)さんと欲す
 この両者は同出にして、名を異にする

 同じく之を玄と謂う
 玄の又玄、衆妙の門なり


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 ※訓読文引用/「釈迦と老子と禅の人々&歎異抄」(http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/)より。

 (了)
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