「神武不殺」の思想と手裏剣術/(手裏剣術)
- 2014/10/30(Thu) -
 日本の伝統的な武術・武道(以下、武芸とする)に共通する概念に、「神武不殺(しんぶふさつ)」という精神がある。

 この精神について、小佐野淳先生はその著書『図説 柔術』(新紀元社)において、

 「(神武不殺とは)日本武術共通の理念。(中略)殺人技術を学ぶことにより、逆に『生』の尊厳を知るところに精神性を求めている」


 と説明している。

 実際、古流柔術の技法は、一打必倒が可能な激しい当てや投げ、人体を損傷することが可能な強烈な極め技を持ちながらも、基本的には当て身で崩し、投げや極め、固め技などにつなげることで、相手を傷つけずに取り押さえることを本義としている。

 この点が、本質的には、拳足による強力な打撃によって相手を倒す(殺傷する)ことを本義としている空手術や拳法、あるいは殺傷目的を前面に出している海外の武術や格闘術と、日本柔術との決定的な差異であろう。

 日本の伝統的剣術は、武具そのものに殺傷力のある太刀や打刀を使う武技であることから、基本的にその技術は殺傷性を本質としたもの、つまり「殺人刀」である。

 新陰流は、その「殺人刀」を人を活かすための「活人剣」に昇華させたとして有名であり、以来、江戸260年あまりの太平の世の中で、新陰流に限らず多くの剣術流派においても、「活人剣」に類する思索・思考が深められてきた。

 こうした剣術諸流の精神性の変遷もまた、柔術と同様「神武不殺」という、日本武芸の精神性の大きな流れに収斂されるものといえよう。

 なお余談ながら、『兵法家伝書』において筆者である柳生宗矩は、殺人術たる剣術について、まず老子の箴言に基づいて「兵は不詳の器(武器=武芸とは不吉な道具=術である)」とした上で、

 「一人の悪をころして万人をいかす。是等(これら)誠に、人をころす刀は、いかすつるぎなるべきにや」

 としており、根源的な部分での剣術の殺人術性は否定していない。これは、机上の空論的な現代の人道博愛主義とは一線を画す、道徳としての武芸の峻厳さである。


 そもそも、「神武不殺」という言葉は、四書五経の帝王たる周易の繋辞上伝に記された一文、

 「古(いにしえ)の聡明叡智、神武にして殺さざる者か」

 という言葉が原典である。

 繋辞上伝におけるこの一文は、聖人の徳の高さを称える言葉であるが、日本武芸創成期の先達たちは、儒学の素養に基づいて、殺人術を練磨することで活人術を学び得るという、ある種の矛盾を孕んだ修行のあるべき姿を、「神武にして殺さざる者」という言葉に求めたのであろう。

 この「神武不殺」の精神は、現代の日本武道の理念をまとめた「武道憲章」の第一条である、

 「武道は、武技による心身の鍛錬を通 じて人格を磨き、識見を高め、 有為の人物を育成することを目的とする」

 という条項にも色濃く反映されているといえよう。

 もっとも、それが実現されているのかどうかは、現代の日本の武術・武道界を見渡すと、非常に疑問の余地があるのだが・・・・・・(苦笑)。


 さてひるがえって、手裏剣術における「神武不殺」とは、どのようなものであろうか?

 たとえば手裏剣の術理の本質を、「相手の戦闘力を削ぐことを目的とした、削闘剣」とする考え方があるが、これは、手裏剣術の武術性を矮小化する危険性を多分に孕んでいる。

 「削闘剣」という考え方は、ひとつの技術論としては多いに意味のあるものであるが、それを手裏剣術の本質に置いてしまっては、「一死一殺」「一殺多生」という、厳しく激しい精神性があってこその日本武芸から、大きく逸脱してしまうのではなかろうか。

 伝統ある古流であろうが、われわれのような現代会派であろうが、日本の伝統的武芸の流れを継承する手裏剣術を標榜する以上、そこにはどうしても「一打必倒」の術と、「生死一重の間合からの渾身の一打」という激しい気概が、その本質になければならない。

 こうした「術」と「気概」がないのであれば、どんなに的中率が高くとも、遠い間合から刺さろうと、結局それは、「生死」という切迫した事象を課題とする日本武芸とは、まったく遠い地平にある活動であるといえよう。

 では現代の手裏剣術者は、「削闘剣」という考え方を除いて、「一打必倒」や「生死一重の間合からの渾身の一打」という本質的な術理を守りながら、どのように「神武不殺」という日本武芸の本流たる精神性を具現化するのか?

 究極には、

 「一打必倒」の気組みを持って、相手を未発のうちに制する位

 こそが、手裏剣術者の目指すべき「神武不殺」の具体的な姿=「術」なのではないだろうか。

 そのために、われわれは日々、「間積りを五寸三間と定め、身体を実直にし、わが天真より、息を詰めて打ちかける」(藤田西湖師)という手裏剣術の三学を守りながら、ただ黙々と打剣を繰り返すのである。

 こうした無限のような積み重ねの先にこそ、神武不殺の手裏剣術という「道」があるのだろう。

 (了)
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