「まづ、稽古の劫入りて、位のあらんは、つねのことなり」/(武術・武道)
- 2015/01/11(Sun) -
 本日は翠月庵の稽古始め。

 当庵目録のKさんとともに、みっちりと手裏剣の打剣をした後、剣術と抜刀術についても、細かな口伝を伝えつつ稽古を行う。

 このレベルでの指導となると、もはや集団指導はまったく不可能であり、柄手ひとつ、運足ひとつとっても、マンツーマンでの細かな指導=稽古となる。

 上級の稽古になればなるほど、この1日、この1回、この一瞬の指導に血肉が通ってくる。

 学ぶ側、指導する側それぞれの意欲と実力、そして業前が三位一体となった稽古は、実に心地よい。

 手を抜けば手を抜いただけ下達し、学べば学ぶほど上達する。

 稽古は人を裏切らない。

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▲手裏剣術 組稽古(平成26年秋季合宿/打太刀・市村翠雨 仕太刀・K氏)


 『風姿花伝』より

 問ふ。能に位の差別を知ることはいかむ。
 答ふ。これ、目利きの眼には、やすく見ゆるなり。およそ、位の上がるとは、能の重々のことなれども、不思議 に、十ばかりの能者にも、この位、おのれと上がれる風体あり。ただし、稽古なからんは、おのれと位ありとも、 いたづらごとなり。まづ、稽古の劫入りて、位のあらんは、つねのことなり。また、生得の位とは、長なり。嵩と 申すは別のものなり。多く、人、たけとかさとを、同じように思ふなり。かさと申すものは、ものものしく、勢い のある貎なり。またいふ。かさは、一切にわたる儀なり。位・長は、別のものなり。

(問 能の位の上下を知るにはどうすれば良いでしょうか。
答 これは目利きの眼には、簡単に見分けがつくことである。大体において、位が上がるというのは、能の鍛練に鍛練を重ねて次第に上達することであるけれども、ただ不思議なことに、たとえ十歳の能の演者であっても、この位が自ずと上の方にあるような風體を見せることがある。もちろん、それに重ねて稽古をしなければ、持って生まれたような位の持ち主であったとしても、やがてそれをいたずらに無駄にしてしまうことになる。
 まず何より稽古に励むことで、位を上げていくのが常道であって、持って生まれた位というものは、言ってみれば、その人に生来備わった品格、すなわち「長(たけ)」というべきものであって、芸の幅や奥行きの大きさを表す、いわゆる「かさ」とは、また別のものである。かさというのは、ものものしく、また勢いのある形かたのことであって、よく言われることだが、それは能の一切のことがらにおよぶもので、位や長とは別のものである。)

 (了)
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