Twitter・・・/(身辺雑記)
- 2015/02/28(Sat) -
 昨日、とある武友から久々に電話があった。

 メールでも携帯でもなく、家電にかかってくるというのが、なんとも昭和チックで感慨深い(笑)。


 「なに、最近は柳剛流の稽古をしてるんだってね」
 「おう、ブログ読んでくれたんだ」
 「いんや、読んでないよ」
 「・・・? じゃあ、なんでそんなこと知ってんだよ」
 「ツイッターで見たぜ」
 「はあ? オレはツイッターなんてやってねえぞ」
 「なんか、あんたのセリフがデカデカと出てるぜ(笑)」
 「なんで!?」
 「あんたのブログを読んでいる人が、書いてるみたいよ。教えてやるから、スマホで検索してみな」
 「オレはスマホは持ってねえよ」
 「じゃあガラケーでいいよ」
 「ガラケーって言うな。それにオレは、携帯でネットを見るのが嫌いなんだ。携帯ってのは電話をするための道具だろうが」
 「めんどくせえ奴だなあ・・・、じゃあパソコンでいいから見てみろよ」


 ということで、電話で話しをしながらパソコンでちゃちゃっと検索したところ、たしかに前回の私のブログの冒頭の一文が、ツイッターに書かれている。アップしているのは、本ブログを読んでくれている人のようだ。

 基本的に、ここに書いていることは、誰もが読めるブログで公開していることだから、出典さえ明記してもらえれば、引用やコピー&ペーストされるのはぜんぜんかまわない。

 そもそもウェブになんらかの文言や文章をアップすること自体、それを誰がどのように引用したりコピペして拡散するのか、書いた本人にはあずかり知れぬことだというのは重々承知しているし、そのつもりで書いている。

 しかし、改めてオノレのあずかり知らぬところで、自分の書いた言葉や名前が一人歩きしているのを目の前に突きつけられるというのは、あらほましき昭和生まれの日本人としては、「ちょっとびっくり」というのが、正直な感想である。


 たとえばここで、「私は渡辺ジュースの素が好きだ!」と書いた瞬間、まったく面識の無い誰かがそれをツイッターにコピペしてアップし、それによって「市村翠雨は渡辺ジュースの素が好きである」というきわめてパーソナルな情報が、当人のあずかり知らぬところで拡大再生産され、それが国境を越えて無限に広がっていくのである。

 ま、私が渡辺ジュースの素が好きであるという情報は、その真偽も含め、たとえそれが拡散されても私の生活にこれといって支障はないし、そもそもそんな情報を拡散したい人もいないだろうが・・・・・・。

 一方で、オノレの文言が引用・コピペされ、拡散されているというのは、たとえば今回の件で言えば、その文言の発信元である本ブログを読んでくださる人がいるということであり、それはそれ、たいへんありがたいなとしみじみ思う。

 今回、こんなことがあったので、戯れに「市村翠雨」とか「翠月庵」などという言葉で検索をかけてみると(エゴサーチってやつですか)、たとえば「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」とか、引用している人がいるのですね・・・(汗)。


 つらつら考えるに、20年間、フリーの取材記者兼編集者としてメシを食ってきた出版業界人という立場から言うと、ある一定の思いや考え方、出来事を文字で伝えるには、最低限必要な文字数というものがあり、短い文章ほど誤解や誤謬が生まれるリスクが高い。

 その点で、ツイッターの140文字という制限は文字数が少なすぎる。

 長文はいくつかに分けて投稿すればいいのかもしらんが、そうなったらそうなったで、ぶつぶつ切れて読みにくい。おまけに新しいアップが上に来るから、一連の文章について、文脈や時系列を「ぱっと見て」把握しにくいのだ。

 そういう意味では、昔懐かしい2ちゃんねるの掲示板のような形式は、新しいアップが下に来るので、途中から読んでも、時系列を直感的に把握しやすい。

 こうした特性からも、ツイッターはストレスがたまるので、あんまり読みたくないのである。ま、私の主観だけどな。


 これは取材や編集の現場、あるいはプライベートでもつくづく感じるのだが、最近、短い文章でコミュニケーションをすることが、優秀さの証しのように勘違いしている若いスタッフが少なくないように思える。

 もちろん、(このブログのように!?)無駄にだらだらと書かれた文章というのは、読んでいて苦痛だろうし、仕事上のコミュニケーションとしては非効率的なものだ。

 しかし、それにしても文字を使ったコミュニケーションには、最低限必要な「前後の文脈」だとか、修辞というものがあるだろうと思うのは、私が古い人間だからであろうか・・・・・・。

 あと、ツイッターってさ、なんかその人の生(ナマ)の思考や感情をテーブル一面にぶちまけているのを見せられているようで、人によってはちょっと気持ち悪いんだよな。他人の房事を、無理やり見せられているような感覚っていうかね。

 
 いずれにしても、ツイッターのような、直感的・感情的・断片的・断定的で、即時性の高い言語コミュニケーションツールは、「今の人」向けの情報媒体なのだろうなとしみじみ思う。

 とりあえず私には、ツイッターもラインもスマホもタブレットも、いらねえな。

 それよか久保田の万寿とか、アードベッグの10年とか、ナリのいい片口とか、岩波やちくまの文庫とか、毎朝届く埼玉新聞とか、履き心地のよい足袋とか、肌ざわりのよい麻の浴衣とか、手にしっくりくる木太刀とか、人の手で鍛えられた打刀とか、使い慣れた手裏剣とかの方が、私の生活にとっては切実な必要性と現実感のある事物だ。

 というわけで、ツイッターとかよく分かんないっス。

 (おしまい)
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