柳剛流深井派の師範家を訪ねて(その2)/(柳剛流)
- 2015/04/20(Mon) -
 深井家では、伝書や木太刀のほかにも、柳剛流に関連するさまざまな資料があり、また今に伝わる逸話を伺うことができた。

 現在、深井家には弘化元(1844)年に建てられた茅葺寄棟造りの大きな長屋門が残されており、さいたま市の指定文化財となっている。この門の内側は広々とした中庭になっており、その一角、長屋門端に隣接し、かつて深井柳剛流の稽古場があったという。

間取り
▲当時の稽古場の平面図


 稽古場は間口3間、奥行き8間だが、ちょうど真ん中に座敷が敷かれて二分されており、奥は控えの間のようになっていたとのことで、実際に稽古場として使われていたのは、3間×3間半ほどのスペースであったという。

 当然ながら、この広さでは十分な稽古は難しかっただろうことから、普段は門内の中庭で主に稽古を行っていたのではないかという。

 稽古場が建てられたのは文久3(1863)年で、深井派剣一世の源次郎が、岡田十内から免許を受けてから9年後のことであった。

道場棟木1

道場棟木2

道場棟木3
▲建築年と深井源次郎、半次郎(剣二世)などの名前が記された、稽古場の棟木が残されている


 深井柳剛流の剣の道統は、剣三世・源次郎の代で途絶えた。この源次郎が、現当主である治男氏の祖父となる。

 明治20(1887)年に生まれた剣三世・源次郎は、昭和16(1941)年に55歳(数え年)で亡くなった。治男氏の話しによれば、常に三尺ほどの木太刀を杖代わりにして肌身離さず、眠るときにも木太刀を布団の下に忍ばせるなど、手放すことがなかったという。

 また剣一世・源次郎はたいへん小柄な人だったようで、実際に着用されていたという鎖帷子が深井家には伝えられていたが、「今の小学生くらいの体格に合わせたようなサイズで、とても着ることができなかった」(治男氏談)とのこと。

 なお深井家には、2冊の『武術英名録』が所蔵されている。いずれも万延元(1860)年に発行されたものなのだが、記載内容がかなり異なっている。

英名録1

英名録2

英名録3
▲深井柳剛流の剣士名が、より多く収載されている方の『武術英名録』。ここに記載されている岩井兵部は、大宮氷川神社の神職であったという


 治男氏によれば、一方の英名録には深井柳剛流の剣士は深井源次郎1名のみしか記載されていないが、もう一方の英名録には複数の深井派の剣士の名前が記載されているという。

 ちなみに、この万延の武術英名録には664名の剣士の流派と氏名が記載されているが、柳剛流剣士は合計149名で、北辰一刀流や神道無念流などをしのいで最大勢力となっている。それだけでなく、たとえば岡田派柳剛流・岡田十内の門弟は1000人を超えていたと言われ、あの山岡鉄舟も若かりしころ入門して教えを受けていたという。あるいは直井勝五郎門下の松平主税介忠敏は、柳剛流剣士として時の講武所師範にもなっている。

 江戸時代後期にこれほど興隆した柳剛流が、平成の今、すっかり衰退してしまったというのは、本当に残念なことだ。現在、流祖以来の伝統を受け継いだ柳剛流の剣術や居合、突杖や長刀を継承し稽古をしている人は、いったいどれくらいいるのだろうか・・・。

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 文末で恐縮ですが、どこの何者かも分からない私の来訪を快く迎えてくださり、貴重な資料の数々の公開とお話をしてくださった深井治男氏に、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。


■参考文献
「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第14巻、21-35、1979年10月/大保木輝雄
「埼玉県の柳剛流(その2)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第15巻、35-47、1980年9月/大保木輝雄
「埼玉の剣術 : 神道無念流・甲源一刀流・柳剛流 第7回特別展」1991年/戸田市立郷土博物館
「埼玉武芸帳―江戸から明治へ」さきたま出版会/1981年/山本邦夫
「浦和における柳剛流」『浦和市史研究』第2号、132-158、1987年/山本邦夫
「戸田剣術古武道史」 剣術流派調査研究会/2013年/辻淳

 (了)
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