ざんげの値打ちもない/(身辺雑記)
- 2015/05/02(Sat) -
 生来、だらしのない酔っ払いながら、愚か者は愚か者なりに生きていれば、それなりの経験知を積み重ねるものだ。

 まだヒヨコの頃、台所にあった親父のダルマを盗み飲みして以来、酒を飲んでの失態には枚挙の暇がないけれど、ひとつ最近心がけているのは、酔っ払ってパソコンに向かったら、ブログやSNSへの書き込みなどは極力しないということ。

 往々にして酔っ払って書いたものというのは、そのときはゴキゲンでこじゃれたことを書いたつもりになっているが、後で読むと、こっぱずかしいことや、くだらないことばかりで、ま、素面で読んだら赤面する駄文であるのが関の山である。

 にもかかわらず、酒を飲むとついついyoutubeで昭和の懐メロなどを聞きたくなり、そこでさらに楽しくなり、「タハ、オモチロイ・・・」などと一人ごちながら、アルコールに海馬まで犯された頭で駄文を書き散らし、翌朝それを見て、頭を抱えることになるのである。

 もう何度、この詩を口ずさんだことか・・・・。朔太郎先生、ありがとう。


 「宿酔の朝」(萩原朔太郎)

 泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛痛しいところに噛みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髓まで紫色に變色する。

 げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌忌しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。

 けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へ、そこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦苦しく腹立たしいものであるかを忘れて。

 げにかくの如きは、あの幸福な飲んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥醉と悔恨と、悔恨と泥醉と。いかに惱ましき人生の雨景を蹌踉することよ。


 (了)
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