百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず/(武術・武道)
- 2015/05/11(Mon) -
 「不立文字」
禅宗の根本的立場を示す語。悟りの内容は文字や言説で伝えられるものではないということ。仏の教えは師の心から弟子の心へ直接伝えられるものであるという以心伝心の境地を表したもの。ふりつもんじ。:デジタル大辞泉より



 前々回の本ブログで報告した通り、先日、国際水月塾武術協会・小佐野淳先生のご指導の元、仙台藩伝柳剛流の剣術と居合を富士北口諏訪明神社に奉納演武させていただいた。

IMG_0902_柳剛流剣術
▲柳剛流剣術、「右剣」


 柳剛流といえば「断脚之術」、脛斬りで知られるわけだが、実伝として学び稽古をするほどに、流祖が工夫し先達が修練を続けた深い術理をひしひしと感じることができる。

 こればかりは実伝を受け、稽古しなければ分からないものだ。

 私自身、小佐野先生にご指導をいただく以前から、柳剛流には深い関心を持ち、その「断脚之術」についてもあれこれ考えをめぐらしてきたことは、本ブログの古い記事に書いてある通りである。

 しかし実際に学ぶことで、それまで耳学問のみで妄想していたことが、どれほど的外れで陳腐であったか、今となっては己の不徳を実感するばかりだ。

DSCN0681_柳剛流居合
▲柳剛流居合、「左行」


 武芸が身体文化である以上、師から受ける実伝とその後の稽古の反復なしに、その「術」や「理合」を感得することはできない。

 ましてや武術の「思想」や「哲学」を語るのであれば、いずれかの武芸に熟達した上で、自流の伝書や添え書きを深く考察することはもちろん、さらに広く武芸・兵法に関する和漢の典籍を通し先達に学ぶ必要がある。

 武術人の素養として、『五輪書』や『兵法家伝書』、『不動智神妙録』、『天狗芸術論』や『猫の妙術』など初学者向けの基本書籍はもちろん、『剣説』や『剣微』くらいは読んでおくべきであろう。また、「神武不殺」という日本武芸の根本精神を知るためには、その原典である周易繋辞伝や老子などにも当たらねばなるまい。あるいは兵法については、最低でも『孫子』、『三略』、『六韜』は読み込んでおくべきであろう。

 ところが、二刀を語るのに『五輪書』すら読んだことが無い者、剣禅一如を論ずるのに『兵法家伝書』も知らないという者がいることも、また事実でもある。


 翻ってみると、近年はネットにさまざまな情報があふれ、原著や典籍に当たらず、お手軽なダイジェストに簡単にアクセスすることができる。あるいは、他流の形の演武を簡単に動画で見ることができ、それどころかかつての高手名人の業を、自宅に居ながらにしてパソコンで見ることさえもできる、なんとも便利で、しかし軽い時代だ。

 私などその昔、旧師に「○○流の××という業を見せてほしい」などと言ってしまい、「十年早い!」と足腰立たなくされたことがあったっけ・・・・・・(爆)。今考えれば、なんと無礼で世間知らずな小僧であったことか、冷汗三斗の思いである。

 閑話休題。


 いずれにしても、ネットに転がっている情報は、テキストにせよ画像・動画のたぐいにせよ、所詮二次的なものに過ぎない。

 身体文化は「百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず」というリアルな世界であり、最低でもその「一触」なしでは一知半解が関の山であり、「術」や「業」、「動き」の本質を感得することはできないであろう。

 実伝を通してたゆまぬ稽古を重ね、さらに加えて古今の典籍を通して多くの先人の教えを学ばねば、武術という総合的な身体文化を習得し理解することはできないのである。

 こうした学びの階梯とバランスを誤ってしまうと、実技・実力の伴わない「耳学問」に、あるいは逆に品位と教養を軽視した「稽古着を着たゴリラ」に陥ってしまう。

 私は記者という職業柄、エビデンスやロジックを重んじる立場であるけれど、畢竟、武芸の本質は「不立文字」であることもまた事実である。

 一振りの素振り、一打の打剣、一度の形に深く意を注ぎながら、さらに広く古今の典籍に学ぶ。

 こうした、文武兼備の姿勢を大切にしたいと思う。

 (了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
| メイン |