伝承していくことの難しさ/(柳剛流)
- 2015/06/03(Wed) -
 1860(万延元)年に刊行された『万延英名録』(真田玉川,江川英山編)は、関東近辺の剣術家の氏名と住所、流儀を掲載した紳士録であり、ある種の道場案内とも言えるものだ。

 本書に記載された総勢664名に及ぶ剣士を流派別に集計すると、以下のようになる。

・柳剛流   149名
・北辰一刀流136名
・神道無念流 64名
・天然理心流 64名
・甲源一刀流 32名
(以下略)

 本書は何しろ江戸時代の刊行物なので、関東一円を対象に剣術家を掲載したといっても、当該地域を満遍なく調査したというものではないだろう。

 それにしてもこの時代、関東でいかに柳剛流が興隆していたのかがよく分かる資料である。

英名録3
▲柳剛流のほか、柳剛流中山派、深井柳剛流、飯箸柳剛流などが掲載されている『万延英名録』。ただしこの写真の版は、一般に流布している版とは掲載内容が一部異なるものとのことである


 さて、それから155年。

 21世紀となった現代、上記の流派は、いずれも当時と同じ関東地方でそれぞれ流派の命脈を保っているが、唯一、柳剛流のみはかつての興隆とは対照的に、衰退しているというのはなんとも残念なことだ。

 剣術史家・辻淳氏著の『幸手剣術古武道史』によれば、近年、柳剛流岡安派師範家の剣三世・岡安尚(1908~1979)の門人であった岡安源一氏と宮澤裕彦氏が幸手市剣道連盟と一体となり、柳剛流の形の研究・復元を計り、剣術形7本の形を復元させたという。

 17年前の1998(平成10)年には、埼玉県伝統武術連盟主催の第三回埼玉県伝統武術演武大会に出場されたということだが、最近の同連盟の演武会では柳剛流の名前を目にしない。

 現状で、この幸手剣道連盟伝の柳剛流剣術形が、どの程度の規模で稽古・継承されているのか、非常に興味深いところであるが、今のところあまり情報がないのが残念である。


 いずれにしても、先述の『幸手剣術古武道史』や『戸田剣術古武道』などみると、明治以降、戦前の大日本武徳会の成立とその影響力の拡大とともに、多くの柳剛流師範家やその傘下の剣術家たちは、しだいに古流としての柳剛流の稽古から近代的な撃剣=剣道の指導へと移行していく様がよく分かる。

 また南部修哉氏著の『角田地方と柳剛流剣術』をみると、二代目岡田左馬輔信忠以来の伝系を誇る角田でも、昭和30年代にはすでに柳剛流の稽古は、組織的にはほとんど行われていなかったことが記されており、南部氏は「角田地方ではすでに柳剛流は失伝してしまった」との旨を書き記している。


 150年という歳月の長さをどう評価するかにもよるだろうが、かつて武州一円で、これほど多くの人々が学び、受け継いできた柳剛流が見る影もなく衰退しているというのは、なんとも残念なことだ。

 一方でそのような状況の中、師との貴重なご縁をいただき、流儀の業を学ぶ者としての責任の重さもまた、ひしひしと感じるところである。

 伝統の業とは、受け継ぐことは難しく、失ってしまうのは容易なものだ。

1506_後詰
▲柳剛流居合、「後詰」

 (了)
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