流祖生誕の地に息づく断脚之太刀~幸手市の柳剛流を訪ねる/(柳剛流)
- 2015/06/22(Mon) -
 埼玉県幸手市は、江戸の頃は日光街道の宿場町として栄えた、現在は人口約5万2000人のやや小ぢんまりとした首都圏郊外の町だ。

 今から250年前の明和2(1765)年、この地(武州葛飾郡惣新田。現在の幸手市惣新田)に生まれた岡田惣右衛門奇良は、はじめに心形刀流を学び、後に廻国修行の折り、風に折れぬ柳の枝の柔よく剛を制す様子から、自らの工夫編纂した武術を「柳剛流」と号した・・・・・・。


 今回は、柳剛流の流祖生誕の地である埼玉県幸手市で、今も同流の稽古を続ける先生方にお会いし、流儀に関するお話を伺うことができた。

 平成10年代、幸手市では岡安派柳剛流の剣三世・岡安尚の門人であった岡安源一先生と宮澤裕彦先生を中心に、柳剛流の復活と保存の機運が高まった。これを受けて、両師と幸手市剣道連盟が一体となり、柳剛流の形の研究と復元が計られ、7本の剣術形が復元され、稽古されるようになった。

 平成14(2002)年には、埼玉県伝統武術連盟主催の第三回埼玉県伝統武術演武大会にて、千葉仁先生(剣道錬士六段)と持田征男先生(剣道錬士六段)らによって、柳剛流剣術が披露された。これは埼玉県内で行われた柳剛流の演武としては、71年ぶりの快挙であったという。

 以上の情報は、辻淳氏著『幸手剣術古武道史』に記載されているが、その後、当地での伝承はどのようになっているかなどを伺うべく、幸手市武道館に千葉・持田両先生をお訪ねし、まず以下の点についてお話を伺った。

Q.幸手市剣道連盟伝の柳剛流については、どの系統の形を復元したものなのか?
A.岡安源一先生が所持していた、宮城県角田地方に伝わる柳剛流剣術形の映像を基本に、岡安・宮澤両先生が学んだ岡安派剣三世・岡安尚師の指導内容の記憶も加味して、剣術形七本を研究・復元した。

Q.現在、復元・稽古されている形はどのようなものか。
A.礼法と剣術形七本(1.青眼右足刀、2.青眼左足刀、3.飛柳(龍)剣、4.無心剣、5.中合刀、6.右頸、7.左頸)。

Q.伝書や武具(木太刀)など、伝来品や資料の有無。
A.木太刀など武具の伝来品はなく、一般的な剣道用の木刀にて稽古をしている。資料としては、岡安源一先生が所蔵している『一條家系譜探訪』という資料がある。免許の伝書については、10数年前、研究者を名乗る人物に貸し出したまま、返却されずに今に至っているとのこと・・・・・・。

Q.現状でどの程度の規模(人数や頻度)で稽古をしているのか?
A.千葉・持田両先生の指導の下、現在4人の大学生が稽古をしているとのこと。定例の稽古は、毎月1回、第4日曜の午後1時より、幸手市武道館にて実施。毎年1回、幸手市武道館の武道館祭りにて、演武を行っているとのこと。

Q.その他。
A.こちらの伝では、打太刀を「内」、仕太刀を「利」とよんでいる。掛け声は、内も利も「エイ」「エイ」の二声である。

Q.柳剛流の読み方/呼び方について。
A.岡安派柳剛流剣三世・岡安尚の直弟子であった、岡安源一先生も宮澤裕彦先生も、ともに「リュウゴウリュウ」と、「ゴ」の字はにごって読み/呼んでいた。


 以上の質疑で最も重要な点は、復元のための基礎材料となった、宮城県角田で撮影されたという映像についてである。果たしてこの映像で演武をしているのは、角田在住のどなたなのだろうか?

 これについては、残念ながら千葉・持田両先生はご存じないとのことで、現在ご高齢のため静養されていらっしゃるという岡安源一先生に、後日確認をした上で、結果をお知らせくださるとのことであった。

 さて、私が小佐野淳先生より学んでいる仙台藩伝柳剛流は、宮城県角田にて伝えられた柳剛流二代・岡田(一條)左馬輔信忠以来の剣術・居合・突杖・長刀で、これを小佐野先生は佐藤健七師より学んでいる(流祖・岡田惣右衛門奇良~岡田左馬輔信忠~斉藤主計清常~泉富次~佐藤金三郎~佐藤健七~小佐野淳~市村)。

 一方で、千葉・持田両先生が伝えている剣術形も、(映像にて)形を伝えた個人は特定できないものの、同じ角田地方の伝であるという。

 たしかに、たとえば礼法については、小佐野先生の伝も千葉・持田両先生の伝も、ほぼ同じ所作である。

 しかしながら、

・柳剛流の根本ともいえる、切紙で学ぶ二本の剣術形の名称が、小佐野先生の伝では「右剣」「左剣」であるのに対し、千葉・持田両方先生の伝では「右頸」「左頸」と異なっている(伝書類を見ると、確認できる範囲すべてで「右剣」「左剣」となっており、「右頸」「左頸」という記述の伝書は、いまのところ見られない)
・小佐野先生の伝では剣術形が合計8本あるのに対し、千葉・持田先生の伝では7本と1本少ない
・一部形の名称の漢字表記が、小佐野先生伝と千葉・持田先生伝で異なる
・実際に形の演武を拝見させていただいたところ、各形の理合・勝口の大筋はほぼ同一ながら、運足や体捌き、斬撃位置などが、それなりに異なっている

 などの点を考慮すると、これはあくまでも私の推測だが、同じ角田地方の伝でも、幸手で復元された柳剛流の基本材料となった映像資料で演武をしている方は、佐藤健七師ではなく、別の柳剛流継承者だったのではないかということだ。

 あるいは、幸手の映像資料で演武しているのが同じ佐藤師であったとしても、復元に際して相当部分、岡安派の理合や伝承を盛り込んだのではないかということも、十分に考えられる。

 ただ、私の手元にある資料記載の岡安派の伝書を確認すると、いずれも切紙の剣術形の名称は「右剣」「左剣」となっているので、やはり同じ角田地方の伝でありながら、異なる師伝による復元である可能性が高いのではなかろうか。

 いずれにしてもこの件に関しては、後日、岡安源一先生からのご回答を期待するところである。

 また稽古に使う木太刀についても、残念ながら千葉・持田両先生の知るところでは、古いものは無いとのことであった。しかし、岡安源一先生が何かお持ちになっているかも知れないということで、これもご確認していただいた上で、後日、連絡をいただけることとなった。

 さてもう1つ、これは少し意外だったのは、柳剛流の読み方/呼び方についてである。

 これまで、私が調べた中では、柳剛の「ゴ」の字はにごらず、「リュウコウリュウ」と読む/呼ぶという伝がほとんどだったのだが、岡安派剣三世の直弟子であった岡安源一先生も宮澤裕彦先生も、ともに「リュウゴウリュウ」と、「ゴ」の字はにごって読み/呼んでいたという。

 さてさて、結局どちらが正しいのか、何やらまた振り出しに戻ってしまったようである・・・(苦笑)。



 一通りお話を伺ったあと、千葉・持田両先生による剣術形を拝見させていただいた。

 私が学ぶ仙台藩伝の形とは趣や術理が異なる点も少なくないが、先にも書いたように、大筋ではそれぞれの形の流れ・大意はそれほど大きく異なっていないことが分かった。

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▲内・千葉先生、利・持田先生による形「右頸」。相手の脛を斬る瞬間


 また今回の訪問では、お話を伺い形を拝見させていただくのと合わせて、「一條家系譜探訪 柳剛流剣術」(一條昭雄 編)という貴重な資料2種を、いただくことができた。

 1つは仙台藩伝の祖となる、柳剛流二代・岡田(一條)左馬輔信忠の家系とその事跡を追った資料である。このなかでは、角田系の柳剛流の伝書(切紙・目録・免許)が複数記載されているのが、非常に興味深い。これらについては、稿を改めて本ブログで報告するつもりだ。

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▲「一條家系譜探訪 柳剛流剣術」(一條昭雄 編)記載の、柳剛流の切紙。岡田(一條)左馬輔が弘化3(1846)年に出したもの。突杖は「突」と記され、多くの伝系にある「抜留」の形が無い。居合形も、岡田十内はじめ柳剛流第三世代の師範家が出した切紙では計5本なのが一般的だが、この切紙では「後詰」と「切上」が無く、計3本となっている。また「備之伝」にも変動があるなど、たいへん興味深い


 また、同じタイトルの別冊子には、千葉・持田両先生がご指導されている柳剛流剣術形7本の解説がまとめられており、事跡研究だけではなく、むしろ実技の稽古が目的の中心である私のような者にとっては、非常に貴重で参考になる資料である。

 以上、今回の訪問調査の結果を駆け足で取りまとめたが、次は8月2日(日曜)に、幸手市武道館で開催される武道館祭りの演武の際、見学にお邪魔させていただくことを約束させていただき、武道館を後にした。



 末筆ではありますが、同流とはいえ師伝の異なる稽古者である私を快く迎えてくださり、お話や形を披露してくださった、千葉仁先生と持田征男先生に、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 また、他会派との交流・研究調査に関して快くご許可をくださった、我が師である小佐野淳先生にも、この場を借りて感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 (了)
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