秘密警察は深夜1時にドアをノックする/(時評)
- 2009/04/14(Tue) -
 日本が良い国だなあ・・・、と思うのは、仮に私が日曜午後の新宿アルタ前で、「”未曾有”という漢字が読めず、大学生時代に日清のチキンラーメンの値段を知らなかった麻生太郎は、たぶんオレよりバカだし、そういうバカが首相をしているような国の国民である、今、オレの目の前を歩いているあんたらも同じくみんなバカ野郎だ!」、などとハンドスピーカーで発言したとしても、逮捕されたり、公的・非公的組織などに拉致・監禁されないということだ。

 ただし、その時、目の前をたまたま通った、腕っ節に自信のある若いオニイチャンや、自衛隊上がりの元気なオジサン、あるいはたまたま不機嫌なOLさんなどにぶん殴られるかもしれないが、それはそれ、自分の責任であり行動と発言の結果である。

 だからまあ、私は日曜のアルタ前で、こんな発言はしない、たぶん・・・。

 なお蛇足だが、日本語には本来、「自己責任」という熟語はない。責任というのは、本来、必然的に自己に帰結する事柄であり、わざわざ自己・責任とつなげるのは、Shumidagawa-Riverとか、aoyamadori-avenueというようなもんだ。



 さて一方で、21世紀の世界には、冒頭のたとえ話のような言論の自由がない国も、いまだに数多くある。

 まあちょっと古い話だけれど、1998年のシリアでは、丸2週間、毎日、秘密警察のおっさんが宿の玄関で私を待っていたし、1995年のトルコとイラクの国境では、私服警官がイスタンブールから国境までの私の3週間の行動をすべて知っていて、ご丁寧に軍事境界線からもと来た町まで、覆面パトカーで送ってくれた。アンカラの日本大使館(領事館だったかな?)では、「PKK(クルディスタン労働者党)の解放区取材のためにイラクへ入国したいので、パーミッションを発行してくれ」と頼んだところ、職員が中庭に出ようという。「なんで?」と聞いたら、「盗聴が・・・」と小声で囁いた。

 2000年だったか、陸路、38度線を越えて北朝鮮に入国した際は、通訳が「市村さん、けして金正日(キム・ジョンイル)などと呼び捨てにしないでください。必ず、金正日将軍(キム・ジョンイル・チャングン)とお呼びしてください」と真顔で言うので、「じゃあキン・ショウニチって呼ぶのは?」と聞いたら、まじめな通訳さんに本気で怒られた。

 冗談だって、・・・めんご、めんご(汗)。

 これらの国々で、「アサドは独裁者だ!」とか、「トルコ治安軍はこの10年間で1万人のクルド人市民を虐殺しているのは本当か?」とか、「ハラブジャ以外に、どれくらいのクルド人がフセインが命令したマスタード・ガスで殺されたのか?」とか、「キン・ショウニチの映画のセンスは最低だ!」、などと言ったりすると、わりあい簡単に拘束されたり、最悪、そのまま遠い処へ連れていかれてしまい、夜空のお星様にされちまうこともあるわけです。

 ちなみに中東地域では、秘密警察のガサいれは、必ず深夜1~2時の間に行われるので、「この時間帯にドアがノックされたら、必ず窓から逃げろよ」と、口をすっぱくして言われたものだ。もっとも、もし本当にそんなことになったら、のんきな東洋人の記者が無事逃げられるとは、いわれた本人も、忠告する人も、本気で思ってはいなかっただろう。

 これは後日談だが、結局、イスタンブールでの協力者の自宅が秘密警察のガサいれを食らったのは、私がクルディスタンに向かった翌日だった。またさらにその後、私の取材をフォローしてくれたクルド人ジャーナリストは、家族ともども脅迫されたためオランダに亡命したし、私がトルコから別便で郵送した、現地の記者が撮影したという民間人の虐殺写真は、結局、1枚も日本に到着しなかった。

 これもまた、世界の現実である。

 そういう意味で、たとえば「小泉純一郎も竹中平蔵も、みんな大バカ野郎だ!」と私がこのブログに本気で書いたとしても、多分、公安調査庁の監視対象になることはないだろうし、陸自の特殊作戦群の選抜隊員に射殺されることもない。

 日本は本当に良い国である。言論の自由、バンザイだ。


 さて・・・。

 たとえばラジオで特定の宗教およびその支援団体と、そのリーダーについて、遠まわしに揶揄するだけで、マスメディアに露出していた特定の芸能人が、関連するすべての番組から降板し、あまつさえ20年以上続いてきた自分の出演番組が打ち切られるというのは、なんとも恐ろしい話である。

 まあ、私もジャーナリストの卵であった若かりし頃、地元の居酒屋で創価学会の皆さんが店内の小上がりで会合をしているのを知らずに池田大作批判を友達に向かって延々とぶち、気が付けば信者の皆さんにずらりと囲まれたり、某市谷のH大学でマル経系の皆さんに学生会館に一晩拉致されたりしたこともあった・・・。

 今思えばまさに口は災いの元であるし、一方でまた、「(武)芸は身を助ける」という旧師の言葉の意味を身をもって知った経験でもあった。

 今考えれば、「若さとはバカさである!」と、しみじみ思うわけです・・・。

 とまあそういうわけで、私は北野誠氏という人には別に興味もないし、好意も嫌悪もないわけだが、WEBその他で指摘されているように、仮に創価学会やその会長である池田大作、あるいはそれらとの深い関係がたびたび指摘される公明党についての、北野氏のマスコミ上での批判(というか、単なる毒舌)が、同氏の番組降板や打ち切り、その結果の芸能活動自粛の原因だとするならば、それはたいへん残念であるどころか、民主主義の国で暮らす職業記者として大きな怒りすら感じる。

 なぜならば、言論の自由は日本国憲法で保障された国民の権利であり、またその担保は民主主義の根幹であるからだ。

 そしてまた、マージナルな反社会的行為(特定個人への言論弾圧と社会的地位からの抹殺)が日々の生活の中で黙認されることは、結果としてさらに大きな違法行為(国民全体への言論弾圧、そして独裁や圧政)を認めることにつながるということについては、われわれ人類は、画家くずれのちょび髭やグルジア出身の大男の歴史的蛮行で、すでに十分、学んでいるはずである。

 ただし兵法という点から考えれば、毒舌が売り物だったという北野氏は、芸能人でありながら、職業人としてその世界で生き残るためのぎりぎりの一線を越えてしまい、結果として干されてしまったのだろうという意味で、プロとして未熟であった。



 いずれにしても、特定の宗教が大きな影響力をもつ政治団体が政権与党であるという今の日本の政治的現実は、私のような法学の素養のない無知蒙昧な低学歴者から見ると、政教分離の原則に反しているとしか思えないし、政治家や公的職員でもない市井の毒舌芸人が、一時的とはいえ、単なる舌禍で社会的に抹殺されてしまうようでは、この国もシリアやトルコ、北朝鮮とあまり変わらない、前近代的な三等国家だということである。

 なにより、いまだにそんな蛮行が行われている国で生まれ育ち、今も暮らしている自分自身を、たいへん恥ずかしく思うわけです。

 ちなみにこれは、「羞恥心」の問題ではなく、「廉恥心」の問題なのですよ、念のため・・・。

  (文中、一部敬称略)
スポンサーサイト
この記事のURL | 時評 | ▲ top
| メイン |