晩夏夜想/(身辺雑記)
- 2015/08/14(Fri) -
 昨日、空手の移動稽古中、はたと「柳剛流独自の体捌きには、さまざまな意義・理合が秘められているのだが、そのひとつに打ち込み(斬撃)の際の居着きを無くすという意味もあるのではないか?」と思い至った。

 そこで本日は、この点を念頭に置きながら、剣術・居合・突杖・長刀を稽古。一挙動、一挙動に秘められた、多様な「理」や「法」を味わいながら汗をかく。

 それにしても、居合をみっちりやっておくと剣術や長刀の動きが軽快になり、長刀の形をやりこんでいると剣術や居合の捌きが容易になる。総合武術というのは、こうした相互作用がおもしろい。ことに柳剛流は、剣・居・長刀に共通する体捌きがあり、それらが真・行・草といった趣きで連関しているので、特にそれを強く感じる。

 さらに、これは個人的な研究課題だけれど、この柳剛流的な独自の体捌きを、手裏剣術の打剣に応用してみたらどうなるだろうか? なかなかに興味深いテーマである。これについては、翠月庵の今年の下半期のテーマにしてみようかと思っている。

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 先週から今週にかけて、広島や長崎への原爆投下日があり、この週末は終戦記念日である。

 そんななか、某ネズミがキャラクターのテーマパークの会社のツイッターで、長崎に原爆が投下された日である8月9日に、原爆投下について触れていなかったことについて、批判が集まっているとか・・・。

 なんとも情けない、度量の小さい話である。

 では12月8日には、毎年日本の主な企業はすべからく米国民にお詫びのツイッターを書いているのか? あるいは重慶爆撃が行われた日には、日本中の観光施設は中華人民共和国と中華民国の人民にお悔やみのツイートを発信しているだろうか?

 言っちゃあ悪いが、たかがテーマパークのツイートに戦争における加害についてのお詫びがないというだけで、それを鬼の首をとったように批判するというのは、あまりに自己憐憫的、小人的で情けない。

 そもそも、こちらの負け戦なのだ。

 成熟した大人ならば、黙って死者を悼み、心静かに平和を祈ればよい。

 「あやまれ! 詫びろ!」と、ヒステリックに連呼するほど品位が下がる。そういう廉恥心がないのだろうか?

 日本人とは本来、「恥を知る」ことを美徳としていたはずなのだが・・・。

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 卜占などを趣味・特技としていると、時折、「やっぱり霊感とか強いんですか?」などと聞かれる。

 そこで、「まったくありません! そもそも霊とか、まったく信じてませんから(キリッ!」っと答えると、たいがい非常に残念そうな表情で見られてしまう(笑)。

 なぜか多くの人は、「霊感」なるものがないと卜占などはできないと勘違いしているようだが、そんなことはまったくない。

 易だろうがタロットだろうが、気学でも西洋占星術でも、必要なのは各占術の理論に基づいた演繹的アプローチ、そして直観力と洞察力である。あとは少々、コールドリーディングのセンスがあれば十分だ。

 そこに、霊とか神とか魂とかいう、抹香臭いものは必要ないのである。

 たとえば、周易では「易神」という表現をよく使うが、それはいわゆる神(GOD)ではなく、太極、両儀、四象、八卦という陰陽の変化循環の作用=宇宙の生成・発展・調和・統整の原理そのものを指す。

 だからこそ易経は単なる卜占の書ではなく、老荘思想や儒学においても重要な哲学の書として、二千年以上読み継がれているのだ。


~易は天地と準(なぞら)う。故に能く天地の道を弥綸(びりん)す。仰(あお)いでもって天文を観、俯(ふ)してもって地理を察す。この故に幽明の故(こと)を知る。始めを原(たず)ね終りに反る。故に死生の説を知る。精気は物を為し、游魂は変を為す。この故に鬼神の情状を知る~(繋辞上伝)


 (了)
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