玉城町から届いた、紀州藩田丸伝柳剛流演武の資料より/(柳剛流)
- 2015/09/03(Thu) -
 昨日、玉城町で行われた紀州藩田丸伝柳剛流の演武についての記事を書いたが、つい先ほど、玉城町の担当者の方から以下の資料が届いた。

1)町制60周年記念式典 式次第
2)玉城町町制60周年記念式典における柳剛流演武詳細
3)柳剛流(ナレーション用原稿)
4)構え一覧

 そこで、昨日の記事では書いていなかった点について、補遺として以下にまとめる。

 まずは、資料の摘録と考察。

・演武当日は、剣術の組太刀6本のほか、切紙の「備之伝」も公開された。

・本演武で公開された紀州藩田丸伝の備之伝の名称について、小佐野淳先生から私が学んでいる仙台藩角田伝の備之伝の名称、および武州系・仙台藩伝系の各切紙伝書類と付き合わせたが、すべて同一で差異はなかった。

・三村幸夫先生に当流を伝えた、先代の清水誓一郎先生の肩書きが「北辰一刀流剣道範士」となっている。

・仕太刀をとった三村幸也先生は、免許受領者であるとのこと。

・流儀を紹介する記事でも、また演武中に流されたナレーションでも、流儀の名称の読み方/呼び方は「りゅうごうりゅう」となっており、りゅうごうの「ご」の字は濁る発音となる。


 次に、『町制60周年記念式典 式次第』に掲載された紹介文。

 柳剛流(りゅうごりゅう)

 幕末に台頭した剣術の一流派 であり、 元祖、岡田総右衛門奇良 (明和二年(1765年) )は、 幼少のころから文学武芸を志し、十八歳で諸国を武者修行し諸流の玄妙を知り、脛を斬ること考案、柳の柔にして剛なる心をとって柳剛流と号したと言われています。
 柳剛流は剣術・居合・長刀 ・突杖 ・甲冑当・活法・真剣もぎとり等を含んだ総合武術であり試合を得意とした実践剣法でもあります。
 紀州藩田丸領同心であり、紀州藩剣術師範となった橘内蔵介(文政三年(1820 年) )が伝えた系統が伝承され、現在は、7代目三村幸夫先生が柳剛流剣術・卜伝流鎖鎌を継承、教授されています。
 明治13年、弟子119名が内蔵介の還暦を祝って玉城町宮古の広泰寺に建立した「橘老白翁寿蔵碑」が現存しており、これには村山龍平翁の名も記されています。



 最後は、当日演武中に流されたナレーション原稿。

 柳剛流(りゅうごうりゅう)

 柳剛流は剣術・居合・長刀・突杖・甲冑当・活法・真剣もぎとり等を含んだ総合武術であり、試合を得意とした実践剣法でもあります。
 紀州藩田丸領同心であり、紀州藩剣術師範となった橘内蔵介(文政三年(1820年))は、安生5年(1858年)に江戸に招かれ、赤坂の藩邸において徳川14代将軍(徳川家茂)の前で柳剛流剣技を披露し、帰国の後に田丸城剣道指南役となりました。
 また、内蔵介は田丸ほか13か所に道場を開き、師事する者の尊敬を集め、門人は三千人に及んだとの記録があります。
 明治13年には弟子119名が内蔵介の還暦を祝って玉城町宮古の広泰寺に「橘老白翁寿蔵碑」を建立し、これが現存しています。
 なお、この碑には朝日新聞創始者で玉城町名誉町民第1号である村山龍平(りょうへい)翁の名も記されています。



 さて、今回判明した情報で、今の時点で私が気になる点は3つ。

 第一に、備之伝について、今回いただいた資料は、構えの名称と読みがなの記載のみなので、構えそのものがまったく同じかはつまびらかではない。機会があればぜひ一度拝見して、仙台藩角田伝の備之伝と比較してみたいものである。

 第二に、先代の清水誓一郎先生の肩書きが、「北辰一刀流剣道範士」となっていること。武術家が複数流派を稽古・継承していることは、特段珍しいことではないが、当流と北辰一刀流とは、いろいろな意味で接点や関連性があるので、たいへん興味深い事実である。柳剛流と北辰一刀流とのことについては、また項を改めてまとめたいと思う。

 第三は、くどいようだが、柳剛流の読み方/呼び方について(苦笑)。田丸伝では「りゅうごうりゅう」と読んで/呼んでいることが分かった。ま、これはすでに以前のブログでも書いたけれど、読み方/呼び方は「りゅうごうりゅう」でも、「りゅうこうりゅう」でも、どちらでも良いのだろうし、どちらも往時から読まれ・呼ばれていたのだろう。

 (了)
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