中山派柳剛流/(柳剛流)
- 2015/09/09(Wed) -
 ヤフオクに、中山派柳剛流の誓詞の巻物が出ている。

 落札日まであと2日、現時点で3,100円なり。

 目録や免許の伝書ではなく誓詞なので、技法研究の資料としては必須ではないだろうけれど、流史を学ぶための資料としてはやはり興味深い。

 とはいえ、オークションの定石として、おそらく入札終了間際に、急激に落札価格が上昇するであろう。安けりゃ、私が落としたいけどなあ・・・。

 ヤフオクといえば以前、1万8,000円から入札が始まって競り合いになり、結局2万円以上も出して競り落とした『日本剣道史十号 柳剛流研究 その一』が、今、同じ出品者から9,800円で出品されており、しかももう何ヶ月も落札されていないというのは、いささか腹立たしい(苦笑)。もしや、「つり上げ侍」の仕業だったのだろうか・・・。

 閑話休題。


 中山派柳剛流は、剣一世の中山多七郎満足(1802-1854)が、流祖・岡田惣右衛門奇良の高弟である今井右膳祐行より柳剛流を、磯又右衛門正足より天神真楊流を学び、剣二世の幾之進吉寿(1825-1885)が、両流を合わせて興した流儀である。

 なお、柳剛流に関する資料では、「岡安派」や「深井派」、「飯箸派」など「○○派柳剛流」といった記述が多く見られ、私も本ブログでは便宜上よくこうした表記を用いる。

 しかし、剣術史家・辻淳先生は、その著書である『幸手剣術古武道史』にて、

 「自然に何々派とか何々柳剛流と称せられたのはこの英名録(市村注:『万延武術英名録』)が編纂された当時の初期だけであって、この後各地にいた柳剛流師家や門人が自ら何々派とか何々柳剛流と称したことなどはない。つまり、各地にあった門戸は柳剛流であり、本当の意味での分派とか新流派ではない事を記しておきたい」


 と指摘。その上で、中山派柳剛流については、

 「しかし、書き出したなかで中山派柳剛流だけは中山柳剛流として正式な分派として実際にあった」

 と強調している。
 

 中山派柳剛流剣一世の中山多七郎は、武州足立郡草加在吉蔵新田(現在の埼玉県川口市)にて、同地の開発者であった中山作兵ェの孫として生まれた。一度養子に出されたが、後に故郷に戻り中山家を興し、学識や武技、人望の高さから「里正(庄屋)」に命ぜられたという。

 川口市史編纂室蔵中山家資料の『家系録』には、その人となりが次のように記されている。


 「中山太(ママ)七郎満足ハ人ト為リ剛毅果決、筆翰能クシ、剣槍柔術ニ達シ、剣術ヲ岡田惣右衛門尉源竒良ノ高弟今井右膳源祐行ニ学ビ(別ニ無念流ヲモ学ンデ其ノ奥義ヲ極ムト云ウ)柔術ヲ神田お玉が池在住、天神真楊流元祖磯又右衛門ニ学ンデ何レモ其ノ極意ヲ得タリ」 


 多七郎自身は、「中山派」を名乗ってはいなかったようだが、自らが居を構えた現在の埼玉県川口市や草加市で教線を張り、多くの門人を育成。剣二世となった息子の幾之進吉寿が、柳剛流と合わせて父・多七郎から学んだ天神真楊流を取り入れ、「中山柳剛流」と称した。

 万延の『武術英名録』には16名の中山派柳剛流剣士の名前が記されているが、これは岡安派の27名に次ぐものであり、同派が武州伝柳剛流を代表する有力な一派であったことが推察される。

 中山派の剣脈は、剣三世となる孫の金五郎吉長まで続いた。

 また、剣二世・幾之進の高弟であった高橋芳太郎は、大正年間に鳩ヶ谷警察署の剣道師範として活躍。ここで、天神真楊流や真蔭流などの柔術に達し、講道館柔道精錬でもあった、歯科医の山岡長降を後継者とした。道統を受け継いだ山岡は、1937(昭和12)年に開催された「紀元節奉祝全国古武道型大会」に出場したと伝えられている。


 それでは、中山派柳剛流の技法面の特徴を伝書類からみてみよう。

 まず、明治15(1882)年に、中山幾之進が石井三次郎に出した「初目録」(切紙)をみると、剣術の「備之伝」が「刀法之備」という名称になっている。ただし、内容は他の柳剛流諸派と同じである。

 また突杖は、「突之刀法」という名称となり、本数は諸派より1本少なく合計4本、形名も「弾」「外」「電光」「切落」と、他派とは一部異なっている。

 その他、剣術形、居合形については、諸派と同様となっている。

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▲『幸手剣術古武道史』辻淳著/剣術流派調査研究会に掲載されている、中山派の
切紙。居合の形名は諸派と同様だが、突杖の名称が「突之刀法」となり、形の本数と
名称も諸派とは異なる


 目録については、これは中山派に限らず柳剛流諸派で、記載されている形の本数や名称に多様な異同がある。この点については、項を改めて考察したい。

 その上で、中山派の特徴は、目録伝書に「組手」と称する柔術形が記載されていることだ。他の諸派では、柔術技法や殺活術は免許段階で伝授される場合がほとんどである。

 中山幾之進が、元治元(1864)年に八木下歳蔵に出した「目録之巻」をみると、中山派の組手形は、

・組固
・胸取外
・捨身
・小手返
・壁添
・後当
・髪捕
・唯〆
・腕挫

 以上、9本である。

 それぞれの技法がどのようなものであったか、具体的な手控えなどの資料がないのでなんとも言えない。

 しかし、中山派の柔術技法は天神真楊流から来ていることを念頭に置き、また一般的な柔術技法も踏まえて形名から推測すると、それなりに技法のイメージは湧くのではなかろうか。

 ちなみに岡田十内派では、免許の段階で「手詰伝」として、柔術的な技法を伝授しているようである。参考までに、その形名を以下に記すと、

・柄カラミ
・頭カエシ
・足カウクダキ
・柄トリメツキ
・砂トリメクチ

 以上、5本である。

 中山派目録の「組手」と、岡田十内派免許の「手詰伝」の形名を見比べてみると、何とはなしにだが中山派の「組手」はいわゆる一般的な柔術技法であるのに対し、岡田十内派の「手詰伝」は、いわゆる帯刀した状態での柄捌き系の技のように感じられるのだが、いかがだろう?


 江戸時代後期に活躍した剣客の習いとして、中山派・剣一世の中山多七郎は五十路を越えてもなお、盛んに数多くの他流試合(撃剣による地稽古)をしていたことが記録に残されている。

 そこには、川越藩剣術師範として著名な神道無念流の大川平兵衛英勝、あるいは同じ柳剛流で後に武州伝柳剛流の最大派閥となる岡安派の剣一世・岡安禎輔(英斎)の若き日の名も記されている。

 その多七郎の『修行帳』の巻末には、次の道歌が記されていたという。

 「まけてのく 人を弱しと思うなよ 智恵の力の強き人なり」


■参考文献
『幸手剣術古武道史』辻淳著/剣術流派調査研究会
『埼玉県の柳剛流(その2)』大保木輝雄/「埼玉大学紀要(体育学篇)」第15巻
『ルックバック わらび』加藤隆義(編)/蕨市相撲連盟
『浦和における柳剛流』山本邦夫/「浦和市史研究」第2号
 
 (了)
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