「侘び」と「寂び」に見る、日本的美意識と倫理観/(数寄)
- 2009/04/18(Sat) -
 穏やかに生きたいものだ・・・、と思いつつ、ついつい「ならぬことは、ならぬものです」とか、「王様は裸だ!」と言ってしまうのは、生まれ持った性格のようで、ついついあえて挑戦的な行動をしてしまうのは、ま、しょうがないとあきらめている。

 なにしろ今年でもう、40年も己と付き合ってきたことだし・・・。

 とういうことで、問題定義なブログばっかり書いても疲れるので、たまには数寄な話を書きたいものだと思っていたところ、先だって、日ごろから親しくお付き合いをいただいている無冥流の鈴木崩残さんから、「侘び、寂びということについて」というお題をいただいたので、つらつらと書いてみようかと思う。

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▲日本的なる美意識と倫理観


 「侘び」や「寂び」といった、極めて日本的なる美意識とは、いったいどのようなものなのか?

 侘びとは、「侘しい」という言葉から連想されるように、もともとは簡素だとか質素などという様子を表す言葉であったが、室町末期の茶道文化の高まりと、同時期にみられた禅の広まりのなかで、一段深い日本的美意識に変化した概念である。

 例えば、千利休の師である武野紹鴎はこう語る。

 「侘びという言葉は、いろいろな人が、歌などにも詠ってきたが、最近では正直に慎み深く、おごらない様子のことを侘びというのだ」(『侘びの文』)

 ではこの、「正直で慎み深く、おごらない様」というのは、具体的にはどのような形で表現されるのだろう。

 例えば、

 ブレイク・ダンスと能は、いずれも舞踏の一種なわけだが、どちらがより「正直で慎み深く、おごらない」舞踏なのであろうか。

 これを単に、「ブレイクダンスは欧米の黒人文化が発祥の舞踏なので」とか、「動きが激しいから」とかいった表層で判断し、「だからブレイクダンスより、能の方がより侘びている」と断言して良いものではないはずである。

 あくまでも仮定だが、仮に無我無心、空の境地のなかで、肉体のほとばしりに身をまかせて踊るブレイク・ダンサーと、世俗的権威と日々の収入、惰性と傲慢さの中で舞う能楽者がいたとする。

 さて、どちらが行う舞踏が、より「正直で慎み深く、おごらない様」なのだろうか?

 本来の侘びとは、あくまでも内面的慎みの発露であって、たんなる外形的な状態ではないはずである。

 一方で、ゴッホの『星月夜』と酒井抱一の『夏秋草図屏風』、どちらがより「侘び」ているのかと問えば、多くの日本人が抱一の『夏秋草図屏風』を選ぶということは間違いないだろう。

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▲ゴッホ『星月夜』


 これは、ゴッホの描く絵画世界が「正直で慎み深く、おごらない様」ではないということではなく、我々日本人が感じる「正直で慎み深く、おごらない様」のイメージに、より深く合致するのが抱一の『夏秋草図屏風』であるということに過ぎない。

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▲酒井抱一『夏秋草図屏風』


 この辺りを誤解すると、日本的美意識と倫理観を受け継ぐ文化の一つである武術・武道も、単なる形式主義・権威主義に陥ってしまうのである。


 それでは、我々、日本人が感じる「侘び=正直で慎み深く、おごらない様」のイメージとはどのようなものか?

 ここにかかわってくる概念が、寂びである。

 寂びとは本来、事物が経年劣化する様をさす言葉であったが(錆)、それが転じて、静寂や枯高などといった状態を表す言葉となった。

 われわれ日本人は、バウハウスに代表されるような機能的・合理主義的表現よりも、つぎはぎだらけの『馬蝗絆』に、より深い美を感じるような刷り込みを、500年以上にわたって自ら行ってきた民族である。

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▲東京国立博物館に収蔵されている、
  重要文化財の『馬蝗絆』


 『馬蝗絆』は、そもそも現地でも再現不可能な名品だったため、しょうがないので鎹でとめて送り返すという、きわめて大陸的なある種の「テキトーさ」によってできたもので、当初は「この茶碗は、シナでも再現不能なほどの名物なのだ!」という、権威主義的価値に基づいた名物であったのだろう。

 それが後年、侘び的な「慎み深くおごらない様」という概念と、経年劣化は美しいものであるという寂び的美意識とが結びつくことにより、再現不能であるから価値があるだけではなく、鎹をイナゴに見たてつつ、つぎはぎだらけの劣化した様ゆえに美しい、という寂びの概念に到達した。


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▲鎹をイナゴに見たてる想像力。つぎ
  はぎゆえに美しいという価値観


 このため、安土桃山時代から江戸初期にかけては、わざわざ完成品の茶碗や石灯篭を砕いて、改めて接ぎ直して使用したり飾るのが寂びである、という者まで現れたとか。

 当然ながら、こうした作為的な寂びは、「慎み深くおごらない様」という侘びの概念とは一致しないことから、後年はエセとして排斥されたという。


 以上のような、侘びや寂びという美的概念をまとめるならば、昭和の名茶人であった久松真一が示した、侘数寄の七つの条件というのが、よくその本質をとらえているように思える。

 曰く、

 不均整、簡素、枯高、自然、幽玄、脱俗、静寂

 である。

 こうした侘びや寂びという美意識は、ある種の行動規範としても、これまでの日本人の倫理観を支えてきた。

 ゆえに、日本の武術・武道も当然ながら、こうした侘び、寂びという美意識や倫理観の影響を強く受けているわけであり、だからこそたとえば、グレーシー柔術がどんなにその内容や技術、歴史的経緯や教育的意義から「武道性」を強調したとしても、大多数の日本人の潜在的価値観としては、それは到底受け入れられるものではなく、結局は「格闘技としてのBJJ」、という概念でしか捉えきれないものなのだろうし、文化的にも「武道」としては根付かないであろう。

 これは、ボクシングも総合格闘技も同様である。

 ただし、こうした美的・倫理的概念を400年以上にわたって育ててきた日本人自体が、近年、侘びや寂びに象徴される「慎み深くおごらない様」や「不均整、簡素、枯高、自然、幽玄、脱俗、静寂」といったものへの美的憧憬を失い始めていることも、また事実である。

 本来、こうした内面的な日本的美意識に基づいた倫理観=「慎み深くおごらない様」を涵養するのも、近代的日本武道の使命のひとつであり、それは昭和62年に日本武道協議会で制定された武道憲章の第2~5条などにも、明確に示されている。

 しかし平成の今、その理念と目的が社会において実現されているか否かは、皆さんがご存知のとおりだ。


   武道憲章

   (目 的) 第 1 条
    武道は、武技による心身の鍛錬を通 じて人格を磨き、識見を高め、
    有為の人物を育成することを目的とする。
 
   (稽 古) 第 2 条
   稽古に当たっては、終始礼法を守り、基本を重視し、技術のみに偏せ
   ず、 心技体を一体として修練する。
 
   (試 合) 第 3 条
   試合や形の演武に臨んでは、平素錬磨の武道精神を発揮し、最善を
   尽くすとともに、勝っておごらず負けて悔まず、常に節度ある態度を堅
   持する。
 
   (道 場) 第 4 条
   道場は、心身鍛錬の場であり、規律と礼儀作法を守り、静粛・清潔・安
   全を旨とし、厳粛な環境の維持に努める。
 
   (指 導) 第 5 条
   指導に当たっては、常に人格の陶冶に努め、術理の研究・心身の鍛錬
   に励み、勝敗や技術の巧拙にとらわれることなく、師表にふさわしい態
   度を堅持する。
 
   (普 及) 第 6 条
   普及に当たっては、伝統的な武道の特性を生かし、国際的視野に立って
   指導の充実と研究の促進を図るとともに武道の発展に努める。
 
                     昭和62年4月23日制定 日本武道協議会


 私見だが、残念ながら現在、侘びや寂びに象徴される日本的美意識と倫理観=「慎み深くおごらない様」は、武道に限らずあらゆる面で、この国から急速に失われつつあるように感じる。

 侘びや寂びといった日本固有の倫理観を受け継いだ文化の一つである、日本武道の末席を占める者としては、こうした状況はいささか寂しいが、500年、1000年という長い時の流れの中では、このような文化の盛衰は、避けて通ることのできない帰結なのかもしれない。

 そこに「もののあはれ」を感じてしまうこともまた、私という日本人の意識に刷り込まれてきた、日本的なる美意識と倫理観なのだろう。

 (了)

 参考文献
 『茶の精神』(千玄室/講談社学術文庫)
 『茶道の哲学』(久松真一/講談社学術文庫)
 『茶のやきもの』(満岡忠成/淡交社)
 『日本史小百科 武道』(二木謙一 入江康平 加藤寛共著/東京堂出版)
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