なんかダサイ・・・/(時評)
- 2015/11/02(Mon) -
 昨日の朝日新聞の日曜版『朝日新聞グローブ』で、インスタグラムを紹介する記事に、こんなフレーズがあった。

 曰く、

「ツイッターやフェイスブックなど、SNSはそれまでも使ってきた。でも『長々と文章書くのは、なんかダサイ』。インスタグラムは写真が中心。サイトにはオシャレな投稿写真があふれている」

 のだそうな。

 なるほど、長々と文章を書くのは、「なんかダサイ」んですな。


 長々と文章を書くことで、20年ほど飯を食っている者として考えると、たしかに長いだけの悪文を読まされるのは、なんとも苦痛なものだ。

 ゆえに、長い文章を読む/書くには、そのための修練が必要になるわけで、たとえば大学生の稚拙な卒論レベルでも、幼・小・中・高・大と学んできたからこそ、ようやく一定の分量の長文が読めて書けているわけだ。

 その昔、売文稼業の先輩に、「長い文章が書ける記者は短文も書けるが、短文しか書けない記者は長文が書けない。だからブンヤの書く長文は悪文が多いのだ。ヤツラに6000文字くらいの原稿書かせてみろ、ヒドいもんだぜ・・・」などと、江古田の居酒屋あたりでよく言われたもんである。

 これは今考えると、出版業界カーストにおける最下層民としてのわれわれ雑文屋の、業界ではバラモン的存在であるブンヤさんたちに対するやっかみが多分に含まれていると思うけども。

 やっぱ同じ売文稼業でも、厚生年金がかかってる連中にはかないません・・・。


 文章を書くという行為においては、1つの事象について、より短い語句で核心を突きつつそれを表現するというのは、いわば達人の領域である。だからこそ、芭蕉や放哉は偉大なのだ。

 それにしても、一言半句でモノゴトの核心を突くというのは、容易なことではない。

 武芸で言えば、名人・達人の業なのである。ゆえに売文屋や作家の卵たちは駆け出し時代、とにかく大量に書いて「筆力」を養う必要があるし、そうやって鍛えられる。ある意味でこうした過程も、武術の稽古とよく似ている。

 1000枚でも2000枚でも書ける人間が書いた一言半句と、10枚しか書けない人間が書いた一言半句は、まったくレベルが違う文章なのだと開高センセイも北方センセイも言ってる・・・、オレは会ったことはないけどな(爆)。

 とはいえ時候の挨拶どころか、メールに宛名も書かない人が多い昨今、それこそこんな長文をだらだら書いているのは「ダサイ」のだろう。

 ま、いいんだ。オレたちは滅び行く、あらほましき一党なのだから・・・・・・。


 ところで「ダサイ」という言葉は、死語にならなかったのだねえ。

 なにはともあれ、ナウなヤングは頭がピーマンにならないよう、インスタを楽しんでくれたまえ。

 ぢゃあ、バイビー。

 (おしまい)
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