チラ裏版 「侘び」と「寂び」に見る、日本的美意識と倫理観/(数寄)
- 2009/04/19(Sun) -
 無冥流・鈴木崩残氏の松の間ホームページで、車剣に関する興味深い考察が加えられています。また反転打についても、貴重な考察が加えられていますので、みなさんご覧ください。

■反転打の利点と欠点
http://www.youtube.com/watch?v=sAiw7HvjvX8

■平手裏剣は、本当に量産されたか?
http://www.youtube.com/watch?v=RpqYAA2bauo


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 さて、「侘び」と「寂び」に見る、日本的美意識と倫理観、と題しての小論を前回、取りまとめたわけだが、まあ、あちらの一文はいわゆるひとつの(表)である。

 ここではもうちょっと肩の力を抜いた、(チラ裏版)としよう。


 でもって、「侘び」や「寂び」、あるいは「粋」といった概念を、外国人にどう説明するか?

 たしかに、これは難しい。

 まあ、日本人に説明するのでも、そうとう難しい形而上的な概念なんだから、当たり前といえば当たり前だが・・・。

 侘び。

 岡倉天心は、日本的美を英語文化圏の人間に紹介するために、英文で『茶の本』を著したが、その中でimperfectという表現が、よく侘びという概念を表していると、書いたとか書かないとか・・・。

 実は今、手元には岩波文庫版の『茶の本』しかなく、これは和訳のみで原文は書かれていないので、ウィキからの受け売りである。ウィキを真に受けるのは、どこぞのチョ忍みたいでちょっと嫌だが・・・(と、さりげなく韻を踏んでみた)。

 岡倉のimperfectという表現は、先に挙げた久松真一が指摘するところの、不均整ということなのだろう。

 建築にせよ絵画にせよ工芸品にせよ、欧米人がシンメトリーなデザインをよく好むのに対し、日本人は特に盆栽の剪定に見られるように、不均衡なデザインを好む。これは極端に手を加えられながら、一方で作為性を可能な限り排斥したいという、「侘び的美意識」なのではないかと思う。

 う~ん、またちょっと、「(表)な文章」になりつつあるな・・・。

 ようするに、美人は3日で飽きるが、不美人な方は3日で慣れるということか?

 いや、ちょっと違うな。少なくとも美人に3日で飽きることは絶対にない、私の場合。


 和●の座敷でワイワイ飲んでいる20代の大学生のグループからは侘びを感じないが、金曜の夜、ちょっとすがれたビストロで、お一人様専用のディナーをひとりで黙々と食べている秋田県出身・38歳・独身女性(栗山千明似の憂い顔の美人)からは、多いに侘びを感じるということか?

 いやこれでは侘びではなく、たんに侘しいだけだ。まあ、侘しくても美女は美女である。

 ちなみに、「秋田県出身・38歳・独身女性(栗山千明似の憂い顔の美人)」という設定に他意はない。単なる、私の好みである。

 さて、

 ようするに、侘びというのは、「もののあはれ(the sorrow of human existence/人間存在の悲哀)」ということなのではないか。

 うん、これはちょっと分かりやすいと思う。

 侘びとは、悲哀だ。

 しかも一般的に悲哀というとマイナス表現なわけだが、侘びという概念は、それをむしろ好ましいものとして捉えている。いわば肯定的(affirmative)な悲哀(sorrow )とでも言おうか。

 つまり、「あ~はいはい、どうせ中年ですよ、ハ●ですよ、くたびれてますよ・・・。でもまあ、そういう中年男の悲哀ってのも、当人にとっちゃあ、それはそれで、ちょっとした味かなあとかね・・・・、あはははは・・・・・」というような状態か。

 このような肯定的悲哀という意味なら、「やっぱキムタクよりぬっくんの方が、侘びな感じぃ?」というような表現も成り立つのではなかろうか。
 
 よし、「侘びは温水」っつうことで決定!


 では寂び。

 これはまあシンプルに、ある種の骨董趣味(antiquarianism)といっても良いのだろう。いやそうすると、An antique lookも同様に、結局、ゴッホと抱一の比較説明が必要になってくる。

 やはり、日本的な(Japanese )骨董趣味と、補足すべきであろう。

 ではここでいう「日本的な」ものとは何か? という疑問も寄せられる。おそらくここで、多くの欧米人が、シナ的文化と日本的文化がごっちゃになってしまうのだろう。

 中途半端な日本趣味の外国人の部屋の、妙に大陸的な、しかし和のモチーフも色濃いインテリアみたいなもんである。そういえば、『ラスト・サムライ』で、柔術の師範が、シナ式の抱拳礼式をしていたのは、トホホな気分であった。

 思うに日本固有の文化も、平安時代初期までは、極めて大陸的な色彩の濃いものであったろう。それが、平安末期から次第に純日本化され、大陸的王朝文化とは一線を画した、日本的なる美の元素が熟成されていったのではないか。これに寄与したのが、文化としての禅趣味であり、また茶道であったことは間違いないだろう。

 おっとまた、(表)のようになってしまった、いかんいかん。

 いやね、口語体の柔らかい文章っつうのは、論文調の硬い文章よか難しいわけです。だからよく、安っぽいカルチャーセンターの「エッセイ講座」の講師なんかが、「話言葉のように自然に書けばいいんです」とか言うけれども、それは手裏剣術の初心者に、普通に歩き回りながら的に刺せ、といっているようなもんなんだよ・・・。

 閑話休題。


 まあ要するに、寂びってやつは、「必殺仕事人は、東山よりも藤田まことのが味がある」っつうことだ。もちろんクリント・イーストウッドでも良いでしょう。新作の『グラン・トリノ』には、大いに期待している。ただ私としては、最近のロバート・デュバルの演技に「寂び」を感じるのだが。

 といううことで、「寂びとはロバート・デュバルである」と定義する。


 最後は粋。

 ものの本によれば、上方では粋と書いて「すい」と読み、江戸ではこれを「いき」と読むという。

 そしてまた、江戸の鉄火な若い衆たちは、「粋(いき)ってのは、帰りがねぇってことよ。見栄ってやつぁ、張るもんじゃあなくて切るもんでぃ!」っと言ったとか言わないとか。

 粋。

 これはいわば野暮との対立概念であり、しかも庶民の言葉である。そういう意味では、smartよりも、coolの方が、より感覚的に近いのではなかろうか。

 ただcool=粋となると、華麗にこぶしをぶちかます黒人演歌歌手のジェロみたいなイメージ?

 つうことは、「粋はジェロ」ってことか。

 いやいや、私は個人的には、粋というならジェームズ・コバーンとかロバート・ヴォーン、日本人なら中村吉右衛門だろうかと!

 そうだ、吉右衛門だ。

 「粋は鬼平」だ。

 というわけで、

 侘びは温水、寂びはロバート・デュバル、粋は鬼平ということで・・・、

 どっすか、奥さん?

 (おしまい)
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