「最終奥義」/(武術・武道)
- 2015/11/22(Sun) -
 ここしばらく、坂本龍馬の長刀の伝書が云々・・・という話題が、ニュースで取りざたされている。

 この伝書の話題そのものには言及しないけれども、その周辺で「龍馬は『最終奥義』を知らなかったから云々・・・」とかいう記事を目にした(http://news.livedoor.com/article/detail/10854685/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter)。

 何はともあれ、こうした文脈での「最終奥義」という表現は、日本語の語感として「マッド・マックス 怒りのデスロード」並みにすごいなあと思う。それはたとえば、北斗百裂拳的な何かなんでしょうかね・・・・・・。

 ちょうどここ2日間、東京ミッドタウンで開催されていた某KO大学のイベントでインタビュー七連荘という人道を無視した過酷な取材をしていたのだけれど、その中である若きバイオ関連の研究者との会話中、「厨二病」という話題になった。

 自戒も込めて考えると、武術・武道界というのはある種、厨二病の温床みたいな世界であるわけで、私も気をつけなきゃあなあと思っていたところ、上記の「最終奥義」の話題を目にして、あらあらと思った次第。



 試みに、たとえば柳剛流の「最終奥義」的なものは何かと考えると、そのひとつは長刀であろう。

 何しろ流祖自ら、 「秘伝の長刀を伝授の上の者は、諸流剣術多しと雖も負くる事これ有るまじく候」と明言しているのだから。

 ではそれは、どれほどものすごい超絶的で空前絶後な、天地がひっくり返るような秘技なのであろうか・・・・?

 などともったいぶって書くのもなんだが、稽古者としてまじめに記せば、それはあくまでも常識的な武芸の業の延長線上にあるものであり、魔法のような一手や、それを知るだけで天下無双になるような業ではない。

 これは、柳剛流で言えば免許秘伝の長刀だけなく、目録の「備十五ヶ条フセギ秘伝」、「二刀伝」や「小刀伝」などでも同じことである。

 「秘伝」や「奥義」、「口伝」というものは、流儀の理合に沿った初学からの地道な稽古の積み重ねの上で得られる、「術」の集大成としての形や業、あるいはコツであるというのは、いまさら言うまでもない。

 ゆえに「奥義」の本質といえるものは、実は最初に教わる一手の中にあるというのは、柳剛流に限らず多くの武芸に共通して言えることなのではなかろうか?

 そういう意味で柳剛流の真の奥義は、切紙で最初に学ぶ「右剣」と「左剣」の2つの形にあるのだと、私自身は考えている。

 いずれにしても、地道で確実な稽古の積み重ねこそが本来の「術」の到達すべき高みとしての「奥義」なのだが、冒頭の話題のように「最終奥義」などという言葉だけが先走ると、陳腐というか滑稽というか、イタイ物言い、いわゆる「厨二病全開」ということになってしまうのであろう。


 では、手裏剣術に「最終奥義」的なものがあるとすれば、それは何だろうか?

 これもまた魔法のような業ではなく、地道な打剣の積み重ねの上にある常識的なものである。

 その形態や表現は流儀ごとにさまざまであろうが、翠月庵ではそれを「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」とし、形としては手裏剣術運用形7本目の「突進」や、刀法併用手裏剣術基本形1本目の「先」などで表現している。

 一般的に対抗不能性という観点から、手裏剣術者はより遠くからの打剣を追い求める。しかしその究極が、逆に至近の間合からの打剣に転換するという点に、武術としての手裏剣術の本質があるわけだ。

 もっともこれは、対人攻防の経験の積み重ねがないと理解することができないであろう、行動科学としての武芸の奥深い理合であり、哲学でもある。


 ま、いずれにしても、厨二病にはご用心、ご用心。

 (了) 
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