『人斬り以蔵』/(柳剛流)
- 2015/12/09(Wed) -
 最近、『サムライせんせい』(http://www.tv-asahi.co.jp/samuraisensei/)というテレ朝のドラマにはまっている。武市半平太が、現代にタイムスリップしてきた・・・という軽いノリのドラマだが、こういうシチュエーション・コメディは結構好きだ。

 そんなこともあって、司馬遼太郎の『人斬り以蔵』を再読。ちなみにこの物語で武市は、無学な以蔵を「飼い犬」のように使役する、上から目線のリーダーとして描かれている。

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▲『人斬り以蔵』司馬遼太郎(新潮文庫)


 作中、以蔵が遣う自己流の邪剣を描写する際、その例として挙げられているのが、我が柳剛流である・・・。

 ま、シバリョウによる柳剛流のdisりっぷりは、以前、本ブログでも指摘した通りであるし(「理心流異聞」http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-771.html)、私自身が30年来のシバリョウ読者なので、別に驚くにあたらず、また腹が立つということもない。

 現在と違ってきわめて限られた情報の中で書かれた小説であり、それよりなにより、フィクションの上でのことである。こんなことでいちいち頭にきていたら、「裏柳生」とか「おのれ烈堂!!!」とか言われる流儀の方々などは、やってられないであろう(笑)。

 それどころか、幼少の頃からシバリョウの作品を通して、「この柳剛流という剣法は、はたしてどのようなものであろうか?」と興味をかきたてられてきたからこそ、後年になり当流を学ぶ幸運に恵まれたのだから、むしろシバリョウ様々である。

 というわけで今回は、シバリョウ先生作の『人斬り以蔵』で、柳剛流がどのようにdisられているのかを見てみよう!

 「たとえば、半平太は柳剛流というものの噂をきいている。岡田総右衛門という武州の百姓出身の剣客がはじめた流儀で、いきなり上段から相手の向こうずねを撃つ。撃ってうってうちまくるのである。元来、剣術には足を撃つという法はない。自然防御法もない。安政年間、この柳剛流によって江戸中の名流道場がさんざん荒らされたものである。ようやく桃井道場、千葉道場でその防止法が考案され、柳剛流の流行病のような猖獗がぴたりとやんだということを、武市半平太はきいている」

 以上が原文である。

 まず間違いを指摘すると、流祖の名前は「総右衛門」ではなく「惣右衛門」である。

 また、「いきなり上段から相手の向こうずねを撃つ」ということだが、少なくとも仙台藩角田伝や現在の幸手伝(仙台藩伝)では、流儀の形にそのような業はない。脚を斬るためには、そのための「作り」や「崩し」が必須であり、それなしでいきなり上段から脚を撃つというのは、柳剛流の理合からすると下手(げて)である。

 もっとも、当時の撃剣の稽古では、そのようなやり方をする柳剛流の剣士も少なくなかったであろうことも十分に推測できるので、これは明らかな間違いとまでは言えないだろう。

 「元来、剣術には足を撃つという法はない。自然防御法もない」というのは、あまり古流剣術をご存知でなかったシバリョウ先生ならではの誤謬であり、正しくは、

 「撃剣による稽古では、一般的には足を打つという共通認識がなく、防御法も工夫されていなかった」

 とすべきであろう。柳剛流以外の諸流の剣術形にも、足を斬る技が含まれていることは、以前にも指摘した通りである。

 次。「安政年間、この柳剛流によって江戸中の名流道場がさんざん荒らされた」とのことだが、これはどのような資料に元にした情報であろうか。それらしき明確な記述のある資料は、ぱっと思い浮かばない。

 また、「ようやく桃井道場、千葉道場でその防止法が考案され」との記述について。たしかに北辰一刀流の千葉周作が対柳剛流の防御法を考案したことは、よく知られている通りである。

 「柳剛流という剣術は多く相手の足を打つ流派にて岡田某の発明に掛るものなり。其の足を打ち来る時、此方足を揚げんとしては念あり、故に遅くして多分打たるるものなり。依って、唯我が足踵にて我が尻を蹴ると心得て足を揚ぐれば念なくして至極早きものなり。又此方の太刀先を下げ留めるも善し、これも受け留めると思うべからず。唯切先にて板間土間をたたくと思うべし。是又念無くしてよく留まるものなり」(『剣法秘訣』廣瀬真平編)より


 実際に、千葉周作の次男で天才剣士と呼ばれた千葉栄次郎と、柳剛流松田源吾門下の俊英・押見光蔵との試合では、11本対1本の大差で、押見が敗れたという記録もある(この試合結果には異説もあり。それについては稿を改めて書く予定)。

 一方で、鏡心明智流でも、対柳剛流の防御法が考案されたとは、いかなる資料からの記述であろうか?

 私の見聞している限りでは、先述の千葉対押見の対戦記録が記された『試合勝負附』という資料に、桃井左右八郎(後の4代目春蔵直正)と押見との対戦が記されており、その結果は5本対4本で桃井の勝ちだったとの記録があるのみである。

 さてシバリョウ先生は、どんな資料からこの一文を記したのであろう。なぞは深まるばかりである。

 最後に、「その防止法が考案され、柳剛流の流行病のような猖獗がぴたりとやんだ」との部分。

 もうここでは、「流行病」やら「猖獗」やら、柳剛流はまるでコレラや麻疹のような病原菌扱いである。いやはやシバリョウ先生、何か当流に相当な恨みでもあったのでせうか・・・・・・(涙)。

 ちなみに史実に当たれば、上述の嘉永2(1849)年に行われた千葉栄次郎と押見光蔵との試合で千葉が圧勝した後も、柳剛流は江戸府内はもちろん、武州や仙台、三重などで広く稽古され、幕末から明治初頭まで、その流盛は拡大の一途をたどる。

 しかも、シバリョウ先生が「百姓剣法」と揶揄しているように、こうした柳剛流の興隆は当時の農民階級だけでのことではなく、各地の武士階級にも広くその実力が認められ、普及した上でのものであった。

 それはたとえば、千葉と押見の試合から7年後の安政3(1856)年に、柳剛流の松平忠敏が幕府講武所の剣術師範となったことや、仙台藩伊達家筆頭である石川家の剣術流儀として伝承された仙台藩角田伝柳剛流をみても明らかである。

 明治以降、柳剛流が衰退したのは、他流の剣術と同様、近代的な剣道の普及によるものであり、けして北辰一刀流に破られたことや、斬脚之術が「卑怯・下品・百姓剣法」だと忌避されたからではないことは、ここで改めて強調してよいだろう。


 てなわけで、フィクションはフィクション、史実は史実ということで、皆さんシバリョウ時代小説を楽しんでくださいませ。

 (了)
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