『大武道!』/(書評)
- 2015/12/19(Sat) -
 年末進行の原稿ラッシュであるにもかかわらず、不覚にも風邪を引いてしまい、あまつさえ今週は私用で実家の伊豆に2日間も帰らなければならず、今週はほとんど稽古ができなかった。おまけに喉風邪がいっこうに抜けず、なかなかにキツイ。アラフィフともなると、たかが風邪も堪えるものである・・・。

 そんな中、webでちょっと話題になっていた『大武道!』という本を、書店で“立ち読み”してきた。ちなみにこの本は大武道と書いて、「オー、ブドー」と読むのだそうな・・・・・・。

 基本的に、インタビュー対象の人選をさらっと見て、「こりゃあ武道ぢゃなくて、格闘技&プロレス本だよね」というのがありありと分かるので、そもそも買う気はなかったのだけれど、立ち読みして改めてそのまんまの本でした。

 さて、武術・武道をたしなむ者として・・・以前に、出版関係者の立場から考えても、「この本って、どんな人が買うのだろう?」という疑問が、第一の感想である。対象読者のイメージがぜんぜんつかめん。

 取材対象の人選(プロレス・格闘技関連の人々、フルコンタクト・カラテ、保守系評論家、そして・・・甲野さんなど)を見ると、興行系の格闘技あるいはプロレスファンが主な想定読者なのかなあとも思うのだが、そういう階層の人々というのは日本の伝統文化のひとつである「武道」なるものには、ほとんど関心のベクトルが向いていないのではなかろうか?

 作り手としては、「だからこそ、武道というテーゼを、格闘技・プロレスファンに新しい切り口として提案するのだ!」と言うのかもしれないが、そもそもそういう潜在的ニーズが格闘技・プロレスファンにあるのかが大いに疑問である。

 一方で、いわゆる武術・武道関係者・愛好者からすれば、「格闘技とかプロレスとか、別に興味ないんだよね・・・」というのが実際の所ではないか。

 古流武術に携わる人々や、剣道・柔道・空手道などの競技武道を愛好している階層からすると、ターザン山本とか船木とか田村とかコッポウのセンセイだとか(以上、敬称略)、そういう方面の人々には、大多数が興味の接点すらないように思うのは私だけだろうか?

 またもう1つ、作り手のスタンスとして「武道」と「武士道」の境界というか線引きがあいまいであり、本書で捉える「武道」の定義もはっきりしていないので、保守系思想としての「武士道(武道・士道)」を説きたいのか、行為としての「武道(武芸)」を説きたいのかが明確でなくごっちゃになっている。

 そのため第一特集が「恥を知る」というテーマで、主に興行系格闘技やプロレス関係者のインタビューをメインにしたり、あるいは評論家と保守系論者の対談を掲載する一方、第二特集が「達人はいるのか?」とするなど、編集テーマがとっ散らかっているように感じられる。

 つうか、格闘技関連の人たちというのは、「達人はいるのか」系の話が好きだよねえ(笑)。

 もっとも、本書全体に通底する編集方針は、「興行系格闘技&プロレス的なフィールドから、武道的なるもの(イメージ)を語る」というものであろうから、こうした散らかり具合も、それはそれでエンターテイメントとしてなんでもありなのであろう。

 記事や編集、デザインのノリとしては、誌面に字がいっぱいで、かつての別冊宝島のような香りが濃厚にただよう。

 内容的には、対談やインタビュー記事などの軽い読み物が中心で、武道を志す人が哲学としてあるいは論文的に味読・精読できるような、思索や論考に耐えうるものはない。


 結論として、この本を1400円出して買うかと問われれば私は買わないし、たぶん私の武友やその周辺にいる武術・武道関係者も、おそらく誰も買わないだろうなと思う。

 ま、格闘技やプロレスなどの新しい方向性を模索したいという、コアなファンや業界人なら、さらっと読んでも損はないかもしれない。


「『武道』という言葉は、現在では一般的にいえば、弓道、剣道、柔道、合気道のような、日本において発達をとげた武術の総称として用いている。そしてこの武道に属する種目は、他のスポーツ種目とは異なり、競技的な優劣、勝敗よりも、心技体といったような技芸に加えて形や心構えまでをも重んじる点で、これを日本的な伝統文化の一つとして位置づけている」(二木謙一/國學院大學名誉教授)


「武道は、武技による心身の鍛錬を通じて人格を磨き、識見を高め、有為の人物を育成することを目的とする」(武道憲章 第一条[目的])



1512_大武道

 (了)

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