もうひとつの仙台藩伝柳剛流/(柳剛流)
- 2016/01/03(Sun) -
 私が学んでいる仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖・岡田惣右衛門奇良の門下で2代目を継承した一條(岡田)左馬輔信忠以降の伝系である。この系統の柳剛流は、左馬輔が仙台藩石川家の剣術師範となったことから、同家の領地であった角田や丸森など、いわゆる仙南地域で伝承されてきたものだ。

 一方で、この角田伝とはまったく系統を異にする柳剛流が、同じ仙台藩の旧登米郡を中心とした仙北地域で伝承されていた。

 以下、この仙台藩登米伝の柳剛流について、森田栄先生の名著 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』から簡単に紹介したいと思う。



 仙台藩登米伝柳剛流は、岡田惣右衛門の直弟子と伝えられる加賀藩浪人・野村大輔秀房が最初にこの地に伝えたものという。文化14(1817)年、半田盛仲(号・卵啼)が野村の弟子となり、登米郡佐沼の自宅に稽古場を開設、多くの門弟を育成し、邑主の亘理清胤に招聘されて剣術師範となった。

 弘化4(1847)年、卵啼の稽古場を、流祖最晩年の直弟子であった幕府御家人・吉田勝之丞秀興が来訪。当時すでに53歳であり多くの門人を擁していた卵啼は勝之丞の技量にほれ込み師事。以後、20年以上に渡り勝之丞はこの地で柳剛流の指南を続けた。ちなみに勝之丞は長身の偉丈夫で、三尺二寸の大刀を帯びていたという。

 登米伝柳剛流の大家であった半田卵啼の剣の道統は、養嗣子の八兵衛盛好、その三男であった又右衛門盛勝と三代に渡って続き、佐沼地方の剣道宗師と称えられた。

 さらに、八兵衛盛好の次女・ロクを娶った佐々木直吉の子・三治も、吉田勝之丞、八兵衛盛好、又右衛門盛勝と、歴代の登米伝の師範について柳剛流を学び免許皆伝を受け、後年、登米郡撃剣会長や宮城県立佐沼中学校撃剣教師を歴任する。口承によれば、三治が居合の稽古に用いた刀は、三尺八寸もあったという。

 明治から昭和にかけて活躍した、登米伝柳剛流最後の代表的剣士が沼倉清八である。

 清八は14歳で武道を志し、吉田勝之丞の孫弟子に当たる高橋要治に柳剛流を学ぶ。さらに白石栄之助について柳生心眼流も稽古し、後年、両流の免許を受けるに至る。19歳の年、3年間に渡る全国武者修行の旅に出て、その後さらに京都の武徳会本部で5年の修行後、同会主任教授に着任。

 昭和5(1930)年、43歳にして剣道七段教士、さらに最晩年の昭和34(1959)年には八段範士となったが、その5ヵ月後にこの世を去った。行年72歳、法名は柳剛院清剣範秀居士とされ、石森山安永寺に葬られた。


 なお登米伝柳剛流の実技については、数年前まで宮城県で伝承されていたという柳剛流柔術が、上記沼倉清八の碑文などからも登米伝柳剛流のものだと推測される。

 一方で剣術や居合、突杖や長刀などについては、現在あるいは近年まで実伝が残されていたのか、すでに失伝して久しいのかつまびらかではない。


■参考文献
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)

 (了)
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