小澤正夫著『宮本武蔵 二刀一流の解説』を読む~その2 手裏剣術編/(書評)
- 2009/04/22(Wed) -
 最近、ブログの更新がいつになく頻繁だが・・・という声があるのだが、実は100年に1度という経済危機のおかげで、ここんとこ仕事がさっぱりなかったわけです。そうなると、まあブログにも力が入ろうというもんですわ。

 ところがようやく、向こう2~3週間は仕事が入るようになりまして、おまけにGWは美濃での武者修行(笑)もあるもんですから、また、更新が以前のように少なめになるかもしれませんが、どうぞ変わらぬご愛顧、お願い申し上げます。

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 さて、小澤正夫著『宮本武蔵 二刀一流の解説』(吉川弘文館)のレビュー、手裏剣術編です。

 摘録としますので、本文の引用およびその意訳はゴチックで、市村の注は【】でくくります。引用・意訳文の文末は、原書のページナンバーです。

 それでは、お楽しみください・・・。


小澤正夫著『宮本武蔵 二刀一流の解説』~手裏剣術に関する摘録


■豊前小倉の碑文には、武蔵が手裏剣の達人であった、と書いてある/P14

【これは事実。武蔵の業績を示す最初期(没後10年ほど)の資料であり、その信憑性の高さも折り紙付きの小倉碑文には、「誠に武劔の精選なり。或は眞劔を飛ばし、或は木戟を投じ、北〔にぐ〕る者走る者、逃避する能はず。其の勢、恰も強弩を發するが如く、百發百中、養由も斯れに踰ゆる無きなり。(現代語訳/ 武蔵はまことに武剣の精選たる存在である。真剣を飛ばし、あるいは木剣を投げて、逃げる者も走る者も、これから逃げ避けることはできない。其の勢いは、 まるで強力な弩〔いしゆみ〕を発射するが如くで、百発百中、(春秋時代楚の弓の名人)養由〔ようゆう〕もこれに超えることはないほどである。)。以上、播磨武蔵研究会のURL(http://www.geocities.jp/themusasi/index.html)より引用」と記されている】


■伊賀上野の野武士宍戸梅軒の鎖鎌と試合し、手裏剣で倒したことが「二天記」に出ている/P15

【このエピソードは一般にもよく知られており、さらに手裏剣術家の白上一空軒氏も、その著書『手裏剣の世界』で取り上げ、「とくにこの中(市村註:根岸流手裏剣術の刀術組み込みの型)の四本目は、宮本武蔵が宍戸梅軒の鎖鎌を手裏剣で破ったときに姿勢からとったものではないかとされている」と記している・・・。

 が、これらの逸話は、ほとんど信憑性がない。そもそも、話の大元になった『二天記』そのものが、武蔵の没後131年後(!)に書かれたもので、現代の研究家の間では、その内容の多くがフィクションであるとされている。なにしろ、平成21年に、明治10年に活躍した剣客の逸話をまとめたようなものなのだ。しかも、webも雑誌も新聞も、図書館も何も無かった時代に・・・。一方で、歴史的に信憑性が高い一級の資料とされている『小倉碑文』や『兵法大祖武州玄信公伝来(別名:丹治峰均筆記)』などには、宍戸某との対決などという逸話はまったく記されていない。それにつけても一般の人はまだしも、こうした質の悪い資料を当事者である武術・武道人が鵜呑みしてしまうのは、武術・武道の専門家としての社会的な影響力からも、たいへん困った問題である】


■武蔵流手裏剣は目標に向かって真っ直ぐに投げる直打法で一間半から二間の近距離に使いそれ以上の遠距離にはもちいない。現代伝えられている手裏剣は遠距離を目標に剣先を逆に持って投げ、目標の直前で百八十度回転して突き刺さる半回転が主流となっている/P18

【「武蔵流手裏剣は、直打法で一間半から二間の近距離が直打」というが、その根拠や出典が示されていない。また「現在(出版時は昭和61年)は反転打が主流」という記述も、どういう根拠があるのか不明。昭和61年当時も、手裏剣術の主流は、根岸流や明府真影流などの直打であったと思われるが?】


■一般的に槍や薙刀に対する間合は一間以上とされ、これに自分の太刀先までの三尺を加えて約一間半が手裏剣術の間合となる/P159

【筆者は手裏剣術の実戦間合を、槍や薙刀が相手でも、一間半と喝破する。これは鋭い! 腐っても(失礼)剣道五段は、だてじゃあないか(笑)。近年、「槍に対しては四間」というような説が流布され、また対剣術等でも三~四間距離が手裏剣の実戦間合とされることが多いが、この三~四間という距離は、あくまでも対戦時の“最大有効”射程距離であり、実際には手裏剣術の理が活かせ、なおかつ戦闘に有効となる距離は一間半~二間である。これは、模擬手裏剣で立合ってみれば、すぐに分かることだ。もちろん、相手が長柄槍等、長大な武具の場合は、この限りでないことは言うまでもない】


■左足を出し後ろの直線上に右足を揃え、体の中心軸を目標と一致させる/P160


【この打剣の構えは、何流の構えなのか不明。知新流ならば、右半身の順体打剣のはず。これは左半身の逆体で、しかも前足と後足を一直線上に置く、いわゆる一重身である。こうした逆体の構えをとる代表的手裏剣術といえば根岸流である。後述するが、本書の手裏剣術に関する実技解説部分は、多分に根岸流の影響を受けているように思える】


■短刀打剣の手の内は重心が柄にあるから、距離一間半くらいでは鍔下を少しあけて上から柄を人差指で押さえ、第二指から第四指と親指で握って刃先を下に向ける。距離が二間くらいになれば、人差し指で鍔を押さえ、ほかの三指と親指で握って刃を下に向ける/P160


■弧を描かないようにするため、振り下ろすと思わず一気に前へ飛ばす気持を持つことが必要で、剣と手と腕を一直線にして頭上から前へ打ち込む気迫を持つ/P161

【打剣の際、剣術の斬撃のように腕を振り下ろすと、手離れが遅くなり首落ちしてしまう。このため、手離れを早くすることが手裏剣のツボであり、筆者の言う「前へ打ち込む気迫」もこのことを示している】


■一尺三寸の脇差で柄七寸とすると重心は鍔先にあり、刃先を上にして棟の下から握って槍投げの要領で投げる/P161


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▲小澤正夫著『宮本武蔵 二刀一流の解説』(吉川弘文館)より引用

【これまで、太刀や小太刀(脇差)、短刀などを直打や反転打で「手裏剣に打つ」技は、古流剣術諸流でも見られたが、この「槍投げスタイル」は、本書で初めて見た。たしかに、こうした手の内での打剣もありだろう。ただ、立合という一連の攻防の中で、こうした手の内で脇差を保持するのが合理的かどうかは、考察の余地があろう】


■昔の人は手裏剣をどう見ていたか。『日本武術名家伝』には、次のようにある。「手裏剣の事、知新流について。尾張藩へ伝えたのは(知新流の)丹羽織江氏張です。(中略)。この術は道中旅行の際、山賊などに出会ったときに先手を打ち、敵を撃退するものです。ただし、手裏剣で必ず1人を打ち倒すものと考えてはなりません。人間はたかが、ひと太刀やひと突きで死ぬものではないのですから、手裏剣だけで即死させようとするのは認識不足です。ただ、手裏剣で先手をとって、その隙に乗じて勝つためには良い武器であり技です」と書いてある/P162

【古人の教えは実に深い。「必殺の手裏剣・・・」などと、その威力を過信する者は、己の浅はかさを知るべきである】


■円明流および知新流打剣の型/P166~167


【本書で示される、「円明流および知新流打剣の型」は合計6本。1本目は、藤田西湖著『図解 手裏剣術』のP163~164に示された、知新流の型と同じ。右足を踏み込んで順体の打剣、踏み込んで真っ向正面斬り、という型である。下の動画をご参照いただきたい。




 問題は、その後の2~6本目の型についてだ。これらの型は藤田西湖の『図解 手裏剣術』P165~172で解説されている5つの型とほぼ同じである。ところが藤田の著書では、この5本の型が何流の型か明記されていないのである。ページ建てからいえば、知新流の型の解説後に記述され、しかも流儀名が改めて示されていないので、素直に知新流の型として理解すれば、小澤の著書の解説と矛盾はしない。ところが藤田は、わざわざP165で改めて「1本目」と見出しを立て、前頁で解説している知新流の型の解説と明らかに区別しているのである。

 さらに問題を複雑にしているのが、白上一空軒著『手裏剣の世界』である。この本では、根岸流の刀術組込みの型として、5本の型が記載されているのだが、それが、小澤の著書に示された円明流および知新流打剣の型の2~6本目、そして藤田の著書に示された流儀不明の型5本とまったく同じなのである・・・。

 ここで考えられるのは、

1. 根岸流の5つの型と、円明流および知新流の型の2~5は同一であり、歴史的な時系列を考えると、根岸流(幕末)が知新流(正保年間)の型を導入した。
2. 出版の順序(『図解 手裏剣術』昭和39年初版、『手裏剣の世界』昭和51年初版、『宮本武蔵 二刀一流の解説』昭和61年初版)から、小澤が、藤田あるいは白上の著作を参考に根岸流あるいは名称不明の流儀の型を、知新流の型と詐称した。

 という2つの可能性だ。

 筆者の小澤が、この型の解説の元となった出典を明らかにしていれば、このような疑問や混乱は生じないのだが・・・。】


■知新流手裏剣目録には基本技立打八カ条と居打八カ条の記述があり、これらは明らかに反転打法を示し、いずれも口伝である/P170

【これは、明らかに筆者の間違い、あるいは強引な解釈である。知新流の目録には、立打として「手裏剣離之事、手裏剣軽重之事、同長短之事、同手之内之事、同足踏之事、打出目付之事、指屈伸之事、上下打之事」の八か条、居打では「左右打之事、二本打之事、三本打之事、四本打之事、三間打之事、手裏剣留打様、風切」の八か条、さらに「夜打様、懐剣、腰刀」の三か条が記されている。

 これらのどれが、筆者が言うところの「明らかに反転打を示して」いるのか?

 藤田西湖著『図解 手裏剣術』に掲載されている、知新流の印可伝授書では、「遠い間合の場合は、反転打にせよ」との記述があるので、上記目録の三間打之事は、反転打かもしれないが、それ以外はまったく反転打であることを示す記述も記録もない。ただし一方で、無冥流の鈴木崩残氏は、知新流の手裏剣本体(後ろ重心)の形状は、明らかに反転打により適している、と指摘している。この辺り、口伝として反転打が強調されていたのか、気になるところであるが・・・。

 いずれにしても、現在、公開されている知新流に関する資料を読む限り、同流の打剣が反転打主体ということは認められない】


■(手裏剣を打つ際には、左足を出し後ろの直線上に右足を揃え、体の中心軸を目標と一致させるが)流派によって右半身から右足を一歩踏み出すと同時に腰を捻って左半身となり打ち込むものもあるが、この瞬間に正中線が狂って姿勢が崩れやすい/P180

【この記述は不自然極まりない。「右」と「左」が逆ではないか? 「左半身から右足を一歩踏み出すと同時に腰を捻って右半身となり打ち込む」というのなら、理解できる】


■市村の総評

 本書の手裏剣術に関する記述を読み、脇差や懐剣などを手裏剣に打つ「飛刀術」が、古流においては普遍的な、しかし口伝の技であったという点をさらに確信することができた。また、脇差の打剣における、槍投げ様の手之内の解説を見たのは本書が始めてである。

 一方で、手裏剣術の実技解説については、型に対する疑問点のほか、明らかな誤謬も見られた。しかも、筆者は歴史的経緯の解説部分では、それなりに資料や出典を明示しているのだが、実技部分ではほとんどそれを明らかにしていない。これを意地悪く見れば、実技解説については、『図解 手裏剣術』と『手裏剣の世界』、あるいは成瀬関次著『手裏剣』あたりを参考にして書いたのではないか? とも推察できるのである。そういう意味で、本書は手放しで資料的価値の高い書籍とは評価できない。

 ただし、一次資料はもちろん、二次資料や三次資料すら集めるのがたいへんであったろう、この時代(昭和60年代)に、脇差や懐剣などを手裏剣に打つ「飛刀術」について、これだけ記録を取りまとめ、先駆的な実技解説にも挑んだということは、近代の手裏剣術研究においては大きな足跡であると評して良いかと思う。

 こうした点から、平成の世に手裏剣術を志す者の一人として、筆者の小澤氏には改めて敬意を表したい。

                                             (文中一部敬称略)

 (了)

参考文献
藤田西湖著『図解 手裏剣術』(名著刊行会)
白上一空軒著『手裏剣の世界』(壮神社)

参考URL
「宮本武蔵」(播磨武蔵研究会)
http://www.geocities.jp/themusasi/index.html

「宮本武蔵玄信伝」(松本忠也)
http://homepage3.nifty.com/ganryu/musashi/index.htm
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