柳剛流奇譚~發花杖/(柳剛流)
- 2016/02/02(Tue) -
 柳剛流に関する話題だが、今回はいささか趣が異なる。

 ま、有体に言えば、R18めいた話しなのである。


 本ブログにて以前、「もう1つの仙台藩伝柳剛流」(http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-849.html)という記事を掲載した。そこで、仙台藩登米伝柳剛流の伝承において大きな役割を示した人物として、吉田勝之丞秀興をごく簡単に紹介した。

 幕府御家人の子として生まれた吉田勝之丞は、江戸・神田の在で8歳の時に流祖・岡田惣右衛門奇良に入門。その後6年ほどで流祖が病没したため、さらに流祖の高弟であった佐野宇右衛門昌爵や吉井三郎正乗に師事し、当流の蘊奥に達したという。

 しかし故あって江戸を去り浪人となった勝之丞は、上方から東奥を巡歴。35歳の時、登米郡佐沼在住の柳剛流剣士である半田卵啼の食客そして師となり、以後、56歳で亡くなるまでの21年間、登米地方を中心に柳剛流を教授した。

 この間、勝之丞は南部支藩・小笠原家に招かれて遠野地方で柳剛流を指南したり、あるいは江戸に戻るなど、佐沼を拠点としながらも、各地で出張教授を行ったと伝えられている。


 さて、この吉田勝之丞の次男・熊三郎は、江戸両国薬研堀にて1821(文政4)年に生まれた。長じるとともに父の直伝にて柳剛流の達者となり、15歳となった1836(天保7)年からは伊勢に3年間武者修行し、江戸に戻ってからは柳剛流の若手剣客として名を上げたという。

 1845(弘化2)年、彼は瓜生家の養子に入り、瓜生政和となる。その後、人情本作家である松亭金水の門弟となり、梅亭金鵞(ばいてい きんが)として幕末から明治にかけて、滑稽本や人情本、啓蒙書や諷刺小説の作者として人気を得た。


 さて、ここから話はいささか艶っぽくなっていくのだが、剣客作家・梅亭金鵞は、どういう経緯分からないが、創作活動の一環(?)なのか、はたまた個人的な趣味嗜好からか、發花杖(はっかじょう)なる道具を考案している。

 柳剛流で「杖」といえば、別名・突之刀法ともいわれる「突杖」の術が真っ先に思い浮かぶわけだが、この發花杖、そのような武張った道具ではない。

 なんと、サディズム用の責具なのだという・・・・・・。

 1953(昭和28)年10月に発行された『奇譚クラブ』という、いわゆるカストリ雑誌に「奇具研究」(村田誠一)という記事があり、ここで梅亭金鵞考案の發花杖なる道具が解説されているのである。

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 その記事によると、

 「まづ竹のふしをぬきてやわらかき糸をかくのごとくあなをあけたる中へいるべし」
 「右の図の如く二本こしらへて是を用ふ也其法ぼうしばりのごとくし図のごとく行うべし」

 とのことである。

 ではこの道具、どのような用途に使うかというと・・・・・(以下、自粛。お察しください)。


 それにしても、東奥に其の名を轟かせた柳剛流を代表する剣客の子であり、自身も江戸で名を成した剣士が大衆作家となり、しかも没後60年になって、責具の開発者として再びその名前を時代に残すとは・・・・・・。

 人間とその「性」とは、なんとも不思議で滑稽なものだと、しみじみ思う。


 ■参考文献・URL
 『奇譚クラブ』昭和28年10月号/http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/01/195310_01.html
 『梅亭金鵞』https://kotobank.jp/word/%E6%A2%85%E4%BA%AD%E9%87%91%E9%B5%9E-112946
 『梅亭金鵞』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E4%BA%AD%E9%87%91%E9%B5%9E
 『發花杖』http://smpedia.com/index.php?title=%E7%99%BC%E8%8A%B1%E6%9D%96
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所

 (了)
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