柳剛流の名称の由来についての疑問(その2)/(柳剛流)
- 2016/02/14(Sun) -
 柳剛流という流儀名について、根拠のある由来はどこにあり、それはどのようなものなのだろうか?

 それを示そうと思うのだけれど、その前に、しつこいようだがもう一度、山本教授の文言に立ち戻ってみたい。

 なぜなら、そこに私自身、違和感があるからである。

 前回の記事では、一部文章を省略したのだが、以下はセンテンス全文を引用しよう。


 惣右衛門奇良が、弟子に出した印可の目録には
 「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
 の古歌が必ずといってよいほど記載されているが、ここからヒントを得て流名としたともいわれているが、いずれにしても、臨機応変の太刀遣いを旨とし「外剛内柔」の「躰」を形成することにあったといえよう。
  「浦和における柳剛流剣術」(昭和62〔1987〕年)より


 惣右衛門奇良が、門弟たちに与えた印可の巻物中に、
古歌
  「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
を記述しているが。この古歌をヒントを得て「柳剛流」と名づけたといわれているが、その意味は臨機応変なる太刀使いを旨とし、「外剛内柔」の「躰」を形成することにあったと考えられる。
 「綱嶋家の剣術について」(昭和55〔1980〕年)より



 さて、ここで重要なのは、山本教授はいずれの記述でも、柳剛流の名称について、「根をしめて~」の古歌にヒントを得てつけられた「といわれている」と記述している。

 つまり、この古歌が流儀名の元となったというのは、あくまでも伝聞であるということであり、山本教授自身の見立て・意見ではないということである。

 武州系の伝書に、流祖直伝の伝書がほとんどなく、それを含めても、私が確認した伝書類には「根をしめて~」の古歌の掲載はないという点は揺るがないが、上記のように山本教授の文言をよく読むと、そもそも「根をしめて~」の古歌が、当流の名称の起源であるという説は、山本教授自身の説ではなく、それ以外の誰かの説であり、あくまでも山本教授はそのような伝聞があると書いているということになる。

 そういう意味で、前回記事で、「おそらくこれは、埼玉の武道史を研究されていた故山本邦夫埼玉大学教授の記述に基づいた説であろう」と書いてしまったのは、私の勇み足であった。

 ではそもそも、「根をしめて~」の古歌が、柳剛流の名称の起源であると指摘したのは、いったい誰なのだろうか? 山本教授は、すでに鬼籍に入られて久しく、それを聞くこともできない・・・。

 そんなこんなで、どうしたものかとwebをつらつら見ていると、ふとある記事が目についた。

 それは言わずと知れた、綿谷雪・山田忠史編集による『武芸流派大辞典』の一文であった。以下に引用しよう。


柳剛流 (剣、薙刀、居合、柔、棒、杖 )
祖は岡田総右衛門寄良(奇良・希良)。一に総右衛門、十内と称す。明和二年三月十五日、武州葛飾郡惣新田に生まれた。はじめ新形刀流を伊庭軍兵衛真保の門人大河原有膳有曲に学び、各地を遍歴して三和無敵流四代広沢 源右衛門長喜に従学し、さらに当流( 山本流 )を学び、相手の臑(すね)を斬ること(跳び斬りという)をはじめて一流を創始した。古歌の (根をしめて風にまかする柳見よ、なびく技には雪折れもなし)の意によって柳剛流と号した。幕府の親藩(御三卿の一)一橋家の師範となり、また神田お玉ガ池に道場を建てた。 文政九年九月二十四日死去、六十三歳。  牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡の一条馬之介信忠が、二代目を継いで岡田姓を名乗った。作馬之介は磐城国伊具郡桜村の人。 はじめ同郡角田の館善内に学び、次いで岡田総右衛門に柳剛流を学んだ。 柳剛流二代目を 継いでから帰郷し、角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺の前に建てている (「仙台大人名辞書」 「松坂と剣道」)。 仙台他方・三河・伊勢等にひろくおこなわれ、私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。
(武芸流派大辞典 -昭和五十三年- 1978 Version - p. 911-912).webより引用



 武術史考察の超初歩的資料たる、『武芸流派大辞典』については、実は私はまったく盲点であった。

 というもの、この書籍、数年前に知人に貸したきり、その人と交流がなくなり本書の行方もそのままになっていたのである。しかも、この『武芸流派大辞典』、時代背景を考えれば労作だとは思うのだが、正直言って誤謬や誤記が多く、公証の根拠としては、正直当てにならないと思っていたこともあり、本書の柳剛流に関する記述、いままでまったく読んだことがなかったのである。

 ゆえに、上記の引用は、ネットで拾った引用の孫引きのため、もしかしたら、引用間違いの可能性もあるのだが、とりあえず今手元に原籍がないので、以下、webで拾った孫引き引用の内容を元に論考する。


 思うに、この『武芸流派大辞典』の増補改訂版の発行が昭和53(1978)年であり、冒頭引用した山本教授の 「浦和における柳剛流剣術」の発表が昭和62(1987)年、 「綱嶋家の剣術について」が昭和55(1980)年の発表であることから、「根をしめて~」の古歌が、柳剛流の名称の由来であるという言説の発端は、おそらく『武芸流派大辞典』の記述によるものなのであろう。

 となると、

 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという話が流布している。これは、『武芸流派大辞典』の記述に基づいた説であろう。

 というのが、より正確な論考となるであろう。

 それにしても、この『武芸流派大辞典』の柳剛流に関する記述、ひどいもんである(苦笑)。

 「根をしめて~」の古歌の話以前に、流祖と岡田十内を混同させているのは、言語道断である。また、名前の「惣」という字が間違っている。さらに流儀の実技に「棒」が加えられているが、柳剛流には棒術は無い。また、当流二代目の一條左馬輔の名前も、一部誤記されていると、なんだかなあという感じである。

 しかし一方で、編者自身が稽古したという、龍野藩伝柳剛流に関する記述は興味深い。もっとも、当流の業の根幹ともいえる脚斬りが、ここまで形骸化していたということは、同氏が学んだ時点での竜野藩伝柳剛流は、現代剣道に飲み込まれ流祖が伝えた当流の根幹をすでに失って久しかったということが見て取れる。

 いずれにしても、柳剛流の流儀名が、「根をしめて~」の古歌に由来するという話は、当流の履歴を伝える石碑や伝書には(私が確認した限り)まったく記載がない点から、『武芸流派大辞典』の記述がその説の始まりであるという可能性が極めて高いだろう。

 では綿谷氏らは、この話を誰からどのように聞いたのか?

 これは、たとえば龍野藩伝の柳剛流の伝書などが発見され、そこにそのような記述があれば根拠となるのだろうが・・・・・・。

 (つづく)
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