柳剛流の名称の由来についての疑問(その4)/(柳剛流)
- 2016/02/18(Thu) -
 さて、長々と書いてきた「柳剛流の名称の由来についての疑問」は、今回でとりあえずひと区切りつけたいと思うのだが、どうなることやら・・・・・。


 まず、「柳剛流の流儀名の由来について、 『根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし』という古歌から付けられたという、真偽の定かでない説が流布している」という件について。

 前回は、昭和48(1973)年発行の森田栄先生著『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』にある記述を綿谷雪氏らが参照し、『武芸流派大辞典(増補改訂版)』に掲載。それによって、この話が一般に流布したのではないかという推論を行い、その確認のためには、まずは『武芸流派大辞典』の初版本を確認する必要があると述べた。

 そして先日、本ブログを読んでくださっている、さる武術関係の方が、『武芸流派大辞典』初版本についての情報を寄せてくださり、それにより上記の推論が相当程度補強された。


 さっそく、『武芸流派大辞典』初版本の記述と、増補改訂版の記述を比較していただきたい。

■初版本
柳剛流(剣、薙刀、居合、柔、棒、杖)
祖は岡田総右衛門希良である。一に惣右衛門、または十内とも称した。名は奇良ともある。武州葛飾郡惣新田の人。はじめ心形刀流を伊庭軍兵衛直保に学び、各地を遍歴して諸流の玄妙を知り、臑を斬ること(跳び斬り)を始めて、一流をなした。幕府親藩一橋家の師範となり、また神田お玉ヶ池に道場を建てた。文政九年九月二十四日死、六十二歳。牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺前に建てた(仙台大人名辞典・松坂と剣道)。仙台地方・三河・伊勢等にひろくおこなわれた。(以下、系図)

■増補改訂版
柳剛流 (剣、薙刀、居合、柔、棒、杖 )
祖は岡田総右衛門寄良(奇良・希良)。一に総右衛門、十内と称す。明和二年三月十五日、武州葛飾郡惣新田に生まれた。はじめ新形刀流を伊庭軍兵衛真保(※瀬沼注)の門人大河原有膳有曲に学び、各地を遍歴して三和無敵流四代広沢 源右衛門長喜に従学し、さらに当流( 山本流 )を学び、相手の臑(すね)を斬ること(跳び斬りという)をはじめて一流を創始した。古歌の (根をしめて風にまかする柳見よ、なびく技には雪折れもなし)の意によって柳剛流と号した。幕府の親藩(御三卿の一)一橋家の師範となり、また神田お玉ガ池に道場を建てた。 文政九年九月二十四日死去、六十三歳。  牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡の一条馬之介信忠が、二代目を継いで岡田姓を名乗った。作馬之介は磐城国伊具郡桜村の人。 はじめ同郡角田の館善内に学び、次いで岡田総右衛門に柳剛流を学んだ。 柳剛流二代目を 継いでから帰郷し、角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺の前に建てている (「仙台大人名辞書」 「松坂と剣道」)。 仙台他方・三河・伊勢等にひろくおこなわれ、私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。

※この増補改訂版の記述は、webで拾ったものなので、入力ミスであろうと思うが、正しくは「真保」ではなく「直保」である。 



 このように、初版本では「根をしめて~」云々の話は記載されていないのが、増補改訂版ではこの逸話が加えられている。

 また、増補改訂版では、そのほかにも、流祖の名前、心形刀流のほか三和無敵流や当流(山本流)を学んだこと、二代目を一條左馬輔が継承して岡田姓を名乗ったこと、さらに綿谷雪氏(山田忠史氏?)自身の体験として龍野藩伝柳剛流の逸話などが加筆されている。

 なお、今回情報を提供してくださった方のお話では、『武芸流派大辞典』の前身となった昭和38年発行の『武芸流派辞典』でも、柳剛流に関する記述は『武芸流派大辞典』初版本における最初の括弧内の「柔」がないだけで、その他は同じ文章であるという。


 ここでたいへん重要なのは、「根をしめて~」の逸話だけでなく、流祖の師に関する記述が初版本と増補改訂版で変わっていることだ。

 初版本では、流祖が心形刀流を学んだのは「伊庭軍兵衛直保」となっている。しかしこれが、増補改訂版では伊庭の門人である「大河原有膳有曲」と修正されている。

 古くから流祖の師は、さまざまな資料において伊庭軍兵衛直保とされていた。しかしこれは誤りであり、正しくはその門人である大河原有膳有曲であったという事実を、調査研究によって最初に指摘したのが森田栄先生であり、その情報を掲載したのが『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』なのである。

 その上で、それぞれの資料の発行年を比較すると、次のようになる。

1.『武芸流派辞典』/昭和38(1960)年
2.『武芸流派大辞典』初版本/昭和44(1969)年
3.『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』昭和48(1973)年
4.『武芸流派大辞典』増補改訂版/昭和53(1978)年

 こうした各資料の発行年を勘案した上で、『武芸流派大辞典』の増補改訂版において、流祖の師についての誤りが正しく修正されている点からも、綿谷氏らが森田先生の記述を参考にして加筆をしたことが強く推察されるのである。


 というわけで、私の現時点での推論の帰結はやはり、

 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという、真偽の定かでない話が流布している。これは、『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』の記述が始まりであり、それに基づいてこの話を記載した『武芸流派大辞典(増補改訂版)』によって、広く知られるようになった。

 ということになる。

 あとは、この件について、森田先生はいまだご健勝で活躍されているので、直接先生に質問をすることで結論がつくのであろうが・・・・・・。

 しかし武道史研究の大先達であり、すでにかなりご高齢でもある先生に、

「柳剛流の流儀名の由来について、 『根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし』という古歌から付けられたという、真偽の定かでない話が流布しています。これは先生が『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』に、そのように書かれたために広がってしまったのだと思うのですが、いかがでしょう?」

 などと詰問するというのは、いささか憚られるのである。

 このように感じてしまうのは、私が柳剛流の研究者ではなく実践者であること、つまり学究の徒ではなく修行人であるゆえの限界かもしれない。

 長幼の序というのは、なかなかハードルが高いやね。

 というわけで、「根をしめて~」の件についは、ほぼこのような経緯だったのであろうということで、考察はひと区切りをつけようかと思う。


 それにしても結局今回も、最も信頼できる流儀名の伝承についての話題に到達することができず・・・・・・。

 次回こそ、最終回にしたいものだ。

 なんてったって、この一文を書くだけでも、調べ物の時間も含めるとえらい時間と手間がかかるのである。そんな暇があったらカネになる原稿を5~6本も書いたほうが、老いて寝たきりの両親の介護や難病の治療費の足しになるってなもんだ。

 ま、とかなんとかいいながら、自分が好きでやってるんだから、しょうがないやね(苦笑)。

 (了)
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