柳剛流の「奥義」「極意」/(柳剛流)
- 2016/02/26(Fri) -
 ここのところ柳剛流に関して、「どこそこの記述の、あれこれが間違っている・・・」などということを度々書いている。

 先にも記したけれど、正しい情報の啓発・継承・流布のために、よかれと思ってやっているのだけれど、一方で重箱の隅をつつくように人さまの誤りをあげつらうというのも、なんだか自分がひどく卑しい人間になったようで、気力がなえることも少なくない(苦笑)。

 大前提として武芸については、私は自分を研究者ではなく修行人だと思っているので、稽古≧調査・研究というスタンスは墨守しなければと、日々自戒している。

 というわけで、今回は「術」に関する話を少々。


 先日のブログで、とあるweb上の柳剛流に関する記事について、誤りや真偽不明の記述を指摘した。

 その中で、当流の「奥義」や「極意」に関する部分があり、それについても誤りだと指摘したのだけれど、これについてはもう少し説明が必要かと思う。

 まず、そもそも「極意」「奥義」とは何を言うのだろうか? たとえば『大辞林』は、次のように定義している。

 ごくい【極意】
 学問や技芸で,核心となる事柄。奥義。 「剣の-を授かる」 「 -を極める」


 くだんのwebの記事には、「その極意は「断脚」と言う相手の脛を払う剣技」「此の流派の奥義は相手の臑を払う「跳び斬り」」という記述があったので、これについて私は、「断脚之術は当流技法の根幹のひとつではあるが、いわゆる極意や奥義ではない」と批評を加えた。

 これについて、改めてより正確に述べると、

「柳剛流の奥義・極意とは、断脚之術=脚斬りという現象ではなく、その原理である」

 ということだ。

 ゆえに、必ずしも相手の脚を斬ることだけが、当流の勝口ではない。その原理=体動を用いて、脚を斬ることもあれば、正面を斬ることもある。小鬢や首を斬ることもあれば、腰を斬ることもあるのだ。

 こうした点で、「断脚之術が当流の奥義・極意である」というweb上の筆者氏の記述は、正確ではないが、まったく見当違いというわけでもない。当たらずとも遠からずであるということは、この筆者氏の名誉のために明記しておこう。


 断脚之術は、柳剛流の根幹を成す技法である。

 だからこそ流儀の教習体系において、入門者が一番最初に学ぶ「右剣」「左剣」という2つの形の勝口は脚斬りとなっており、流祖は意図してこのような体系を定めたのだろう。

 これら初学の形で学ぶ断脚之術の原理=体動は、そのまま居合形や目録で学ぶ「柳剛刀」と総称される6本の剣術形(飛龍剣、青眼右足刀、青眼左足刀、無心剣、中合剣、相合剣)につながり、さらに免許秘伝として伝授される長刀(なぎなた)の遣い方にも十分に活かされるのである。

 実際、当流の長刀を稽古をしていると、「なるほど、切紙や目録の剣術や居合で学んだ断脚之術の原理が、このように長刀の術理として発揮されるのか!」と明確に実感することができる。

 このような、技法体系全体に共通する原理=体動こそが、当流の奥義であり極意なのだ。

 なお、「極意・奥義」ではなく、当流の「秘伝」ということであれば、たとえば目録で学ぶ「備十五ヶ条フセギ秘伝」「二刀伝」「小刀伝」など、あるいは免許で学ぶ長刀のほか「一人剛敵」「法活」「五眼」といった口伝が、それに当たるであろう。

1602_中合剣
▲柳剛流剣術「中合剣」。(打)小佐野淳先生、(仕)瀬沼


 ところで余談ながら、流儀に共通する原理=体動という点で非常に興味深いのは、当流に伝わる杖術であり別名・突之刀法あるいは乳根木とも称される「突杖」である。

 剣術・居合・長刀に共通する当流の原理を考えると、どういうわけかこの突杖だけが、そこから逸脱しているのだ。

 具体的に、どのように逸脱しているのかについては、実技・師伝に関することなのでここでは秘する。

 それにしても、現在柳剛流の杖術のみを伝承している流儀・会派が各地に複数あるという点も含めて考察すると、総合武術たる柳剛流の術技体系の中で、杖だけが当流の根幹となる共通原理から逸脱しているというのは、なんとも意味深長だ。

 これについては私なりの推論があるのだけれど、それはまた別の機会にて。

 (了)
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