柳剛流の奉納額(その2)/(柳剛流)
- 2016/03/28(Mon) -
 埼玉県東部にある春日部市は、かつては日光街道粕壁宿として栄えた古い宿場町だ。

 現在は、これといった特徴のない、首都圏にはよくある郊外のベッドタウンだが、市内を流れる家康入府以前の利根川である大落古利根川の岸辺に立つと、なんとなく往時の面影を感じることができる。

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▲小渕橋から望む大落古利根川


 埼玉県内で確認されている2つの柳剛流の奉納額のうち、氷川女体神社のほかにもう1つが、この大落古利根川にほど近い小渕観音にあるという。

 北春日部駅から歩いて大落古利根川を渡り、しばらく進むと住宅に囲まれた木立の中に小渕観音があった。

 鎌倉時代に創建されたというこの古刹は、7体もの円空仏を納めていること、あるいは『奥の細道』の旅の際、芭蕉と曽良が宿泊した場所として知られるが、ここに柳剛流の奉納額があることは、ほとんど知られていない。

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▲本尊の観世音菩薩が、古利根川大洪水で小渕に流れ着いたことから、正嘉2(1258)年に創建されたと伝えられる小渕観音


 早速、本堂の周囲を歩いてみると、堂宇正面から見て左手の壁面に位置する軒下に、柳剛流の奉納額がしっかりと掲げられているのが確認できた。

 ただし、前回紹介した氷川女体神社の奉納額の件ではないが、この奉納額は長年の風雪風雨によって、完全に額文が消えてしまっており、その文面はまったく判別することができない。

 事前に辻淳先生著の『幸手剣術古武道史』に掲載されていた写真を確認しておいたのですぐに分かったが、そうでなければこれが柳剛流の奉納額だとは、誰にも分からないであろう。

 大きさは畳一畳以上はあろうかという立派なもので、 よく見ると額の中央に奉納する二本の木太刀を掛ける刀掛があり、それによってかろうじてこの額が、武術関連の奉納額であることが認められる。

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▲小渕観音にいまも掲げられる柳剛流奉納額。記されていた額文は、完全に消えている


 この奉納額は、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良生誕の地である武州葛飾郡惣新田(現在の埼玉県幸手市)において、門人数千人と称えられた柳剛流岡安派の剣1世・岡安禎助源正明(英斎)が、慶応2(1866)年に献じたものだ。

 なぜそれが分かるのかというと、今は文字が完全に消えてしまっている奉納額だが、幸いなことに大正7(1918)年にまとめられた筆書きの郷土史『吉田村誌』に、その額文が書きとめられているからである。

 『吉田村誌』は平成13(2001)年に発行された『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会発行)に収録されており、さらにこれを元にした額文の翻刻が、『幸手剣術古武道史』にも掲載されている。

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▲『幸手剣術古武道史』に掲載されている額文の翻刻


 額文には、流祖が精進・研究の上で柳剛流を号したと記し、その道統は松田源吾源義教から岡安英斎へ、いずれも流祖同様武州惣新田の師範に受け継がれたこと。その上で、今や岡安英斎の門人は「数百数千」に及ぶ興隆ぶりであるとし、剣二口とともにこの額を掲げると記されている。

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▲二口の木太刀が掛けられていたであろう刀掛が、額の中央上部に見える


 流祖の生家からわずか半里にある豪農の子として生まれた岡安英斎(1827-1909)は、18歳で松田源吾に入門、26歳で免許を受けた。その後、地元に複数の道場を構えつつ、自らは約10年に渡る廻国武者修行を行ったという。

 口承によればこの武者修行の際、英斎は柳剛流二代宗家である岡田(一條)左馬輔が柳剛流を伝えた陸前まで足を伸ばし、当地の柳剛流剣士たちと試合をして負ける事がなかったと伝えられている。

 これは、武州で暮らしながら角田伝の柳剛流を学ぶ私にとって、たいへん親近感を感じるエピソードだ。

 武州葛飾郡惣新田にあった英斎の道場「聖武館」は、間口4間半、奥行き3間で、生涯に育てた門人は3,000人に達したという。その興隆ぶりは、明治12(1878)年に聖武館で3日間にわたって開催された撃剣会に、柳剛流や直心影流の剣士など416人が集まったという逸話からもうかがえる。

 岡安英斎は、同時代に主に江戸で教線を張った岡田十内に勝るとも劣らない、武州伝柳剛流を代表する剣客のひとりといえるだろう。



 ところで、ひとしきり柳剛流奉納額の写真を撮った後、つらつらと観音堂を拝観していると、なんともう1つ武術の奉納額があるではないか!

 しかもこちらは、本堂正面の軒下という、いわば「一等地」に掲げられ、額文は刃物で刻んだ跡に墨などを入れていることから文字もはっきりと残っており、奉納用の木太刀も二口が掲げられているたいへん立派なものだ。

 おまけに奉納された年も、柳剛流の奉納額と同じ慶応2年である。

 これに比べると、長年の風雨で額文はすべて消え去り、掲げられていた木太刀も無くなってしまっている柳剛流の奉納額が、なんとも寂しく思える。

 ちなみにこの立派な奉納額は、神道無念流のものであった。

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▲柳剛流の奉納額に比べると、たいへん保存状態が良く立派な神道無念流の奉納額


 柳剛流と神道無念流は、興隆した時代も地域も重複・隣接していることから、武州で柳剛流の調査をしていると神道無念流の関係資料に出会うことが少なくない。

 また私は、小佐野淳先生に仙台藩角田伝柳剛流と併せて八戸藩伝神道無念流の立居合もご指導いただいているので、これもまた不思議な縁だなあと感慨深いものがある。



 江戸後期から明治・大正の武州において、柳剛流と神道無念流は互いに流勢を競い合った。

 しかし時が平成に移った現在の武州・埼玉では、神道無念流については今も複数の教場があり稽古者も少なくないと聞くのに比べ、我が柳剛流は幸手に教場が1つあるのみで稽古者も数えるほどしかいないというのは残念なことだ。

 武州伝と角田伝とで系統は異なるとはいえ、国際水月塾武術協会本部にて小佐野淳先生より柳剛流を学び、しかも埼玉で暮らしている私は、今後、流祖生誕の地である武州・埼玉で、柳剛流の伝承と普及にどのような貢献ができるのだろうか?

 そんなことを改めて考えさせられた、柳剛流奉納額の探訪であった。


 ■参考文献
 『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会編)
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著)

 (了)
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