改めて考える、「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」/(手裏剣術)
- 2016/06/04(Sat) -
 本日は翠月庵の稽古。

 存分に手裏剣を打つ。

 2間から5間までの直打でウォーミングアップの後、4間直打4寸的への打剣に集中する。

160604_153048.jpg
▲4間4寸的を、「板金を打つ心」で手裏剣を打つ


 一般的に手裏剣術は、より遠くからの打剣こそが有意だと言われてきたが実は、

 「武術としての手裏剣術の有効な間合いは2間半以内」

 という点を、私は翠月庵の開庵時から指摘している。

 その上で、2間半以内での武術としての打剣を担保するためには、3間以上、4間や5間での、より確実かつ威力のある打剣の鍛錬が必要なのだ。

 一方で、5間を超える間合いでの打剣は、あまりにも打法や心法が異なるので、武術としての手裏剣術には不要である。その間合いは、打根や半弓、あるいは弓の間合なのだ。

 とはいえ、4~5間での精密な打剣は、なかなかに難しい。

 それはもちろん、遠間を通しやすい特殊な手裏剣での「置きに行く打剣」ではなく、武術としての手裏剣術に必須な、対敵を前提とした「板金を打つ心」での打剣によるものでという意味でだ。

 その手裏剣術が、「武術としての手裏剣術」であるからには、気・剣・体が一致した、「板金を打つ心」のものでなければならない。

 それが、翠月庵が理想とする、

 「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」

 なのだ。

 こうした気・剣・体の一致した打剣について、残念ながら手裏剣術のみしか知らない術者は、どうしても理解が及ばず、実感できないようである。

 多くの場合、手裏剣術のみしか知らない術者の打剣は、どんなに精密であっても、剣術やその他の武術に通じたものからすれば、「ま、立合いとなれば、最悪相打ちに持ち込めるだろうな・・・」程度の、底の浅さが否めないのだ。

 現代の手裏剣術が、他流の術者に侮られてしまうのは、こうした点にあるのだろう。

 実際のところ、伝統をうたう流派でも、あるいは現代会派でも、手裏剣術を表看板にかかげる術者で、剣術や体術、その他の対敵武術の熟練者にあい対することができる者が、どれくらいいるのだろうか?

 多くの手裏剣術者は、まともな対人攻防の経験すらないであろう。

 「よっこらしょ」と抜刀して納刀すらまともにできない手裏剣術者、他人の打ちや突き蹴りを一度も受けたことのない手裏剣術者がどれほど多いことか・・・・。

 それで「武芸」を語るのは、いかがなものかと思うのは私だけではあるまい。

 むしろ、たとえば芦原会館の故芦原英幸師範のように、先に手裏剣術以外のなんらかの武術を修めた上で手裏剣術を独自に研鑽する人々の方が、はるかに「武術としての手裏剣術」に対する切実さをもって稽古をしているのではなかろうか。

 多くの場合、手裏剣術だけしか知らない術者というのは、武芸者として「ぬるい」のだ。

160604_170410.jpg
▲間合2間から4寸的へ、刀法併用手裏剣術にて「板金を打つ心」での打剣


 単なる的打ち競技ではなく、自由な意思をもって我を斬り伏せようする敵に相対している前提での、「武術としての手裏剣術」は、生易しいものではない。

 私自身、手裏剣術を表看板にする者として、単なる的打ちや娯楽のような行為に堕さない、

 「武術としての手裏剣術」=「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」

 への道は、まだまだ遥か彼方にある。

 (了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 手裏剣術 | ▲ top
| メイン |