遅咲きの剣客、柳剛流・岡田十内/(柳剛流)
- 2016/08/02(Tue) -
 武術稽古と共に流儀の史料などを調べていると、平成の今を生きる自分と先人との間に、近しさや奇妙な縁を感じることがある。



 柳剛流を代表する剣客であり、また当流で最も著名な人物のひとりに岡田十内がいる。

 岡田十内叙吉は、今から222年前の寛政6(1794)年、武蔵国足立郡下戸田村元蕨(現在の埼玉県戸田市下戸田)で、医師・岡田静安の子として生まれた。

 本格的に剣を志したのは20代半ば過ぎからと比較的遅く、江戸に出て柳剛流の門を叩いたのは30歳前後になってからだという。

 十内は江戸で、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良と、その高弟であり江戸で最も柳剛流を普及させた大師範家・今井右膳(旧名・林右膳)の元で修行を積み、30代後半で師の今井から当流の免許を受けた。

 その後、藤堂和泉守や阿倍伊勢守の江戸屋敷における剣術師範などを経て、天保12(1841)年、48歳の時に本郷森川町に自分の道場を開く。


 道場の開設からおよそ25年間にわたり、十内は記録に残っているだけで1200人前後の門人を育てており、その門人帳には、後に一刀正伝無刀流を開く、若き日の山岡鉄舟の名も記されている。

 また上野戦争において官軍と一戦を交え、薩長に坂東武者の矜持を示した彰義隊には、十内門下である江戸や武州在住の柳剛流剣士の数が少なくない。

 彰義隊頭取で陸軍調役並でもあった伴門五郎をはじめ、同隊八番隊長でその後函館まで転戦し官軍と戦い続けた寺沢正明、頭取で第二黒隊長の織田主膳、本営詰組頭・第三白隊副隊長で函館まで従軍した秋元寅之助、第二青隊伍長でやはり函館まで戦い続けた加藤作太郎など、隊の幹部から将校、下士官クラスにいたるまで、十内門下の柳剛流剣士の名前を何人も見ることができる。

 なお彰義隊十一番隊長の横山(加藤)光造は、十内の弟子とよく間違われるが、正しくは松田源吾門下の柳剛流剣士であるという。

 さらに蛇足ながら、彰義隊といえば幕府の旗本・御家人を中心に、江戸在住の佐幕派の各藩士たちも含めた武士によって構成された諸隊のひとつである。

 その幹部や各隊指揮官、下士官などに数多くの柳剛流剣士がいたという事実は、柳剛流に対する「百姓剣法」や「ケレン剣術」、「外道・卑怯の業のため武士階級には疎まれた」などといった根拠のない言い伝えやイメージが、いかに誤解と偏見に満ちた誤ったものであるのかを示す、重要な「ファクト」のひとつといえるだろう。


 さて、上野戦争勃発時75歳であった十内は、寛永寺での戦闘にこそ参加しなかったが、「自分の弟子は彰義隊に300人、官軍には200人いる」と案じ、元蕨の自宅から上野に向かおうとした。

 しかし、折からの洪水による濁流で江戸へ向かう途中の川を渡ることができず、そのうちに戦闘は官軍の勝利に終わってしまったと伝えられている。

 それから3年後の明治4(1871)年11月28日、十内は元蕨の実家で78年の生涯を閉じた。その法名は、「剣心無動信士」となっている。



 岡田十内の事跡をたどってみると、20代から剣を志して30代で流祖の門をたたき、48歳で自分の道場を開いたなど、当時の剣客としてはもちろん、今の感覚で考えても、かなりの遅咲きの武芸者であることが分かる。

 奇しくも私は今年、数えで48歳となった。

 われながら相当なこじつけだとは思うものの(苦笑)、十内が自分の道場を開いたのと同じ年齢で、私も師より柳剛流の教授を許されたということに、時空を超えたささやかな親近感を感じる。

 また十内の家系をさかのぼると、岡田家は古くは本橋家と称した一族であり、南北朝時代には故あって伊豆国修善寺に一族で身を隠したことがあると伝えられている。

 伊豆国修善寺といえば私のふるさとであり、当家の先祖は平安時代の末からこの地にあったと伝えられていることから、もしや私の先祖と十内の先祖との間に、何かの交流があったとしても不思議ではない・・・・・・かもしれない(笑)。

 そんな歴史浪漫に想いが馳せられることも、また、古流を学ぶ上での楽しみのひとつといえるだろう。

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▲岡田十内の肖像画( 『埼玉の剣術-神道無念流・甲源一刀流・柳剛流-』より)


 ■引用・参考文献
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『戸田剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『雑誌并見聞録』(小林雅助著)
 『埼玉の剣術-神道無念流・甲源一刀流・柳剛流-』(戸田市立郷土博物館編)

 (了)
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