下総に息づく「治国安民」の剣、不二心流/(武術・武道)
- 2016/08/12(Fri) -
 先月から当庵で柳剛流の稽古を始めたU氏は、夢想神伝流組太刀を本義に自らの教場で各種武術の指導に当たっている方だが、合わせて古流武術である不二心流の研究をされているという。

 私は基本的に、頭の中は柳剛流と手裏剣術でいっぱいいっぱいなので、まったく不勉強で知らなかったのだが、不二心流は幕末の下総を中心に隆盛を誇った坂東の名流儀であるという。


 そこで少し調べてみたところ、工学院大学の数馬広二教授の『幕末関東における不二心流についての研究―その特徴と社会的役割― 』という論文が公開されており、早速読んでみた(https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/21/3/21_22/_article/-char/ja/)。

 本論文によれば、不二心流は島原藩士中村一心斎が、文政元(1818)年に開いた武術であるという。

 当流の特徴は、剣術を中心とした総合武術であり、かつ農村の貨殖(経済復興)を目指し、「謄」や「気」、「養気錬丹」の法など心法を強調することによって、稽古者=農民に必須の修身鍛錬となっていたという。

 武芸の修練によって「農村社会の復興」を目指したという不二心流の思想は、ある意味で昭和62(1987)年に日本武道協議会が定めた「武道憲章」(http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/kenshou)に見られる、武技の鍛錬を通じて個々人の人格を陶冶し、ひいては社会全体の安寧向上を志す、「武道」の意義の先駆けともいえよう。

 (ただし「武道」が、実際に人格の陶冶と社会の安寧向上に寄与できているのかについては、また別の問題であるが・・・・・・)

 この点について数馬氏は、次のように指摘する。

~以下、引用~

 (不二心流が行っていた養気錬丹会と称する稽古の)必要性については、一心斎が以下のように述べている。

 夫れ兵法の要は、治国安民に止る。何んぞ戦闘の為のみならんや。鳴呼、大任有る者は深く之を思へ。伏義、神農、黄帝は身のたけ八万余丈の神聖也。故に無為の化、不言の政也。其八万余丈の大人となるには、予が錬丹の術にして、長生不死の神術なり。

 つまり、兵法というものは、「戦闘」の為(小なる兵法)にあるのでは無く、「治国安民」の為(大なる兵法)にあるとしており、これを遂行する為の実践方法として「錬丹術」を位置付けているのである。 

~以上、引用終わり~


 その上で数馬氏は、当時の農村の現状や社会状況を考慮・検討した上で、

 「中村一心斎は、不二心流を契機に門人となった農民を啓蒙し、農村復興の指導を目指したのであろう。そのことがまさに、不二心流の理念を実現することだった」(前掲論文より)

 と、結論付けている。


 中村一心斎によって不二心流が起こされた文政元(1818)年といえば、我が柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良は54歳。すでに柳剛流を起こし、神田お玉が池の道場で数多くの門人を育成していた。

 あるいは流祖の高弟である松田源吾義教は、後に武州における柳剛流の大師範家となる岡安禎助(英斎)や、藤堂家江戸藩邸で北辰一刀流の千葉栄次郎や鏡心明知流の桃井左右八郎(後の4代目春蔵直正)と立合い「断脚之術」の妙技を見せた押見光蔵の師であるが、この年に自身の生家があり流祖生誕の地にもほど近い、武州葛飾郡佐左衛門(現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町)に柳剛流の道場を開設している。

 さらに、幕末を代表する柳剛流の剣客・岡田十内叙吉は、血気盛んな20代半ばであり、刃傷沙汰で耳を斬られて己の未熟を知り、改めて剣の修行を志したのがこの頃であった・・・・・・。

 このように、群像劇風に不二心流と柳剛流の当時の様相を俯瞰してみるのもまた、古流武術の稽古・研究の醍醐味である。



 U氏によれば、現在も不二心流は2系統の宗家によって、千葉県内で伝承されその剣脈が保たれているという。

 詳しくは、氏のホームページを参照されたい(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html


 ■引用・参考文献
 『幕末関東における不二心流についての研究―その特徴と社会的役割― 』(数馬広二/武道学研究Vol. 21 (1988-1989) No. 3 p. 22-31 )
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『戸田剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『柳剛流』(幸手市剣道連盟編)

 (了)
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