柳剛流VS鉄人流/(柳剛流)
- 2016/09/16(Fri) -
 2013年に朝日新聞出版から発行された『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(永井義男著)は、剣術を稽古する者であれば、必ず読んでおきたい好著だ。

 鉄人流の免許皆伝を受けた佐賀藩士・牟田文之助による、嘉永6(1853)年から2年間に渡る武者修行の旅の記録の実話である。

1609_51tlr0zZR0L.jpg
▲江戸時代末期の武者修行の様子を知ることができる良書


 柳剛流を学ぶ者として、本書の中で気になるのが、牟田文之助と佐々木軍吾との立合だ。

 安政元(1854)年8月、白河藩を訪れた文之助は、藩の師範を務める三田大六の道場(流派不明)で、他流試合を行った。

 なお、当時の武者修行における他流試合は、現在の剣道における交換稽古による地稽古のようなもので、審判を立てずに自由攻防の稽古を行うような形式が主であったというのは、すでによく知られていることかと思う。

 さてこのとき、たまたま三田道場で稽古をしていたのが仙台藩士の佐々木軍吾である。

 佐々木の流儀は柳剛流。

 こうして、柳剛流対鉄人流の立合が行われた。

 脚斬りでそれと知られた柳剛流と、宮本武蔵伝来の二刀流である鉄人流との対戦に、列席していた白河藩士はもちろん、見物人たちも大喜びであったという。
 
 試合の結果については、2度試合をして「八二で自分が勝っていた」と文之助は自ら記録している。

 もっともこれは、地稽古の経験のある者であれば誰でも実感があると思うが、こうした場合、勝敗の感覚については往々にして自分に甘く相手に辛くなるものである。

 そう考えると、「八二で自分(文之助)の勝ち」というのであれば、実際には「六四の勝ち」くらいであろうか?

 ま、私はどうしても柳剛流剣士の立場で考えてしまうので、その点を差し引いても七三で文之助の勝ちというところが妥当なのかもしれない(苦笑)。

 ちなみに佐々木軍吾は当時26~27歳で、柳剛流は江戸で5~6年の間、稽古を積んだという。柳剛流の修行歴が5~6年ということは、当時の柳剛流における一般的な稽古階梯の進み方を考えると、おそらく目録であったと思われる。

 この時期は、江戸では岡田十内が本郷森川町に稽古場を開き、多くの門弟を指導していた時期である。また仙台藩においては、仙南では岡田(一條)左馬輔系の角田伝柳剛流が、仙北では野村大輔系の登米伝柳剛流が多いに興隆していた。

 佐々木軍吾の柳剛流が岡田十内系なのか、角田伝なのか、はたまた登米伝なのかはつまびらかではないが、これら3系統のいずれか、あるいはそれらのうち複数を横断的に学んでいたのではなかろうか。

 一方で牟田文之助は当時25歳。幼いころから父親の吉村市郎右衛門や内田庄右衛門に師事し、鉄人流の免許皆伝。ということは、修行歴は15年前後というところだろうか。

 こうして、断片的ながらも両者の剣術修行歴を見ると、撃剣における二刀流の優位性に加えて、剣士としての業前そのもので、文之助の方が佐々木よりも一枚上手であったのかもしれない。

 そう考えると両者の他流試合(地稽古)の勝敗は、やはり七三程度で文之助の勝ちだったというのが妥当かもしれない。


 いずれにしても柳剛流と鉄人流の立合、なんとも関心をそそる対戦であることは間違いない。


 (了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
| メイン |