高野佐三郎と柳剛流~その1/(柳剛流)
- 2016/10/14(Fri) -
 高野佐三郎といえば、いまさら説明するまでもない、昭和の剣聖と呼ばれた現代剣道の大立者である。

 過日、書店でふと、『高野佐三郎 剣道遺稿集』(スキージャーナル社)を手に取ってパラパラとめくってみたところ、6ページ、2節にわたって柳剛流について書かれていた。

 しかも、その見出しが振るっていて、「衰微した柳剛流」とある。

 そこで高野が書いていることを要約すると、

1.柳剛流は、岡田十内(総右衛門寄良)が元祖である。
2.試合では長い竹刀で、上段に構え足を打つ。
3.相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
4.これは、「お前は打たせろ、俺をお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。
4.尾張大納言の大寄せの際、柳剛流の何某が、千葉栄次郎、桃井春蔵と試合をした。
5.その試合で、柳剛流の何某は、千葉にも桃井にも完敗。
6.それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばない」とし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった。
7.このため今は、柳剛流をやる人はほとんどいない。

 というような内容が記されている。


 さて、昭和の剣聖に対して、私ごとき平成に生きる市井の無名者がこんなことをいう言うのもなんだが、これらの記述は間違いが多く、ある意味で筆者たる高野の文言からは悪意すら感じられる。


 まず1.について、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良と、その孫弟子である岡田十内叙吉を混同していることや、流祖の出生地を間違えていることについては、まあ情報の少ない時代故、しかたないとしよう。

 次に、4~7の「尾張大納言の大寄せ」の事実関係について、辻淳先生の著作『戸田剣術古武道史』から見てみよう。

 柳剛流剣士と北辰一刀流・千葉栄次郎との試合の逸話は、よく知られたものであるが、その出典の多くが、明治17(1884)発行の『千葉周作先生直伝・剣術名人法』高坂昌孝著、あるいは同年発行の『剣法秘訣』広瀬真平であると考えられる。

 なお、これらの著作は、あくまでも当該試合に関する二次資料であり、厳密な試合の記録ではない。しかも、著者である高坂も広瀬も、いずれも北辰一刀流の剣客である。

 一方で近年の研究により、この柳剛流剣士と千葉栄次郎との試合に関する一次資料が発見されている。

 それが、明治時代の宮廷や警視庁における剣術を長年にわたって調査・研究してきた山下泰治氏が発見した『試合勝負附』という史料である。

 この『試合勝負附』は、嘉永2(1849)年閏4~6月まで、伊勢津藩主藤堂和泉守と豊後岡藩主中川修理太夫の江戸屋敷で行われた、諸流派合同の他流試合、約70試合に関する記録である。

 ここに、藤堂和泉守の家来で、柳剛流松田源吾の門人である押見光蔵と、千葉栄次郎や4代目桃井春蔵を含めた複数の剣客たちとの試合結果が以下のように記されている。


 四月二日 藤堂邸
                  押見光蔵
              論外   対
                  千葉栄次郎

 五月朔日 中川邸
              七本 押見光蔵
                    対
              二本 木藤平治(鏡心明智流・桃井門人)

              七本 押見光蔵
                    対
              一本 宮城丹波造(中西派一刀流・中西門人)

              十本 押見光蔵
                    対
              無   笹岡槌太郎(直心影流・小幡門人)

              四本 押見光蔵
                    対
              六本 香取政治郎(北辰一刀流流・千葉門人)

              一本  押見光蔵
                    対
              十一本 千葉栄次郎

              四本 押見光蔵
                    対
              五本 桃井左右八郎(後の四代目桃井春蔵直正

 


 柳剛流剣士と北辰一刀流の天才剣士・千葉栄次郎との試合に関する一次資料は、いまのところこの『試合勝負附』しか見つかっていない。

 このことから、上記、高野のいう「尾張大納言の大寄せ」というのは、実はここに記されている藤堂家および中川家での試合のことだったのであろう。

 そしてこの試合では、確かに柳剛流の押見は千葉栄次郎に1対15で大敗しているが(これについては異説があるり後述する)、一方で桃井左右八郎(春蔵)には、4対5の僅差で敗れているのだ。

 しかし高野の著述では、柳剛流の何某は、まず桃井と対戦して何本も打ち込まれて大敗し、その後さらに千葉にも続けて完敗するという話にすり変わっているのである。

 なおちなみに、この試合が行われた嘉永2(1849)年は、高野が生まれる13年も前の話だ。

 このように、柳剛流剣士と千葉栄次郎との試合とその周辺に関する高野の記述は、伝聞によるものであり、とても正確な記述とは言えないのである。

 それは6.の「それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばないとし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった」という話も同様で、やはりこれも誤謬、あるいは悪意に基づいたデマに過ぎないと思われる。

 (つづく)
スポンサーサイト
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
| メイン |